- 天正13年11月29日(1586年1月18日)の夜、中部から近畿にかけての広い範囲を大地震が襲いました。天正地震です。規模はマグニチュード8前後と推定され、いくつもの断層が続けて動いたとみられています
- 被害が集中したのは、美濃・尾張・伊勢・近江・飛騨・越中など、秀吉方とその同盟者の領地でした。秀吉が家康攻めの前線基地にしていた大垣城は全壊・焼失し、蓄えていた兵糧も失われました
- 一方、三河・遠江・駿河の家康の領地では、大きな被害の記録が見当たりません。地震は、秀吉と家康の力関係を一夜で変えたのです
- 秀吉は家康攻めをあきらめ、妹・旭姫の縁組と母・大政所の人質による和睦へ方針を変えます。なお、伏見城の天守が崩れたのは、10年後の慶長伏見地震(1596年)のことです
『豊臣兄弟!』第40回「あさひの輿入れ」は、徳川との決戦の直前に大地震が起きるところから始まると伝えられています。この天正地震は、秀吉と家康のどちらにどれだけの被害をもたらし、歴史の流れをどう変えたのでしょうか。この記事では、両者の被害をくらべ、地震で亡くなった人物を確かめ、地震のあと「戦」から「縁組」へと移っていった流れを追います。よく混同される、伏見城が崩れた慶長伏見地震とのちがいも紹介します。地震の全体像は天正大地震とは:帰雲城が消えた夜にまとめています。

天正地震とはどんな地震だったのか
天正地震は、天正13年11月29日(西暦1586年1月18日)の夜に起きました。その2日前にも飛騨・越中で大きな揺れがあったとされ、余震は翌月まで続きます。震源ははっきりせず、岐阜県の阿寺断層、三重・岐阜県境の養老・桑名・四日市断層、富山・岐阜県の庄川断層などが候補に挙げられています。規模はマグニチュード7台後半から8前後と推定されています。
被害は、飛騨・越中から美濃・尾張・伊勢、さらに近江、京都にまで及びました。日本の内陸で起きた地震としては、最大級のものの一つです。
秀吉と家康、被害をくらべる
天正地震の被害を、秀吉方と家康方に分けて並べてみます。
| 秀吉方(同盟者を含む) | 家康方 | |
|---|---|---|
| 主な被害 | 大垣城が全壊・焼失。長浜城、長島城、蟹江城、木舟城が倒壊。帰雲城は山崩れで埋没 | 大きな被害の記録は見当たらない |
| 兵糧・軍備 | 家康攻めの前線基地・大垣城に蓄えた兵糧を失う | ─ |
| 亡くなった人物 | 内ヶ島氏理の一族、前田秀継夫妻、山内一豊の娘・与祢など | ─ |
| 地震のあと | 復旧に追われ、家康攻めを取りやめる | 攻められる危機を免れる |
徳川家臣・松平家忠の『家忠日記』には、地震の揺れや余震が続いたことが書かれていますが、三河で城が崩れたといった大きな被害は記されていません。揺れの強かった地域が、ちょうど秀吉方の領地に重なっていたのです。

家康攻めの前線基地が壊れた
秀吉は、天正14年正月に家康攻めの兵を出すと決め、美濃の大垣城を前線基地にして兵糧を運び込んでいました(秀吉の家康攻め計画(天正14年))。その大垣城が、地震で全壊し、火が出て焼け落ちます。前線の拠点と兵糧を一度に失い、まわりの村々も大きな被害を受けた以上、大軍を動かすことはできませんでした。
秀吉自身も逃げ出した
地震が起きたとき、秀吉は近江の坂本城にいました。秀吉はすぐに坂本を出て、頑丈な大坂城へ急いで移ったと伝わります(天正地震のとき秀吉はどこにいたのか)。
天正地震で亡くなった人物
| 人物 | 場所 | どうなったか |
|---|---|---|
| 内ヶ島氏理とその一族 | 飛騨・帰雲城 | 山崩れで城ごと埋まり、一族が行方不明に。内ヶ島氏は滅亡 |
| 前田秀継とその妻 | 越中・木舟城 | 城の倒壊で亡くなる。秀継は前田利家の弟 |
| 与祢(山内一豊の娘) | 近江・長浜城 | 6歳。城の倒壊で乳母とともに亡くなる |
| 乾和信とその妻 | 近江・長浜城 | 山内家の家老。城の倒壊で亡くなる |
帰雲城の内ヶ島氏理は、この直前に秀吉に降ったばかりでした。城と城下町は山崩れに飲み込まれ、いまも城の正確な場所はわかっていません(天正地震で壊れた城一覧)。前田秀継は前田利家の弟で、越中の木舟城を守っていました。長浜城では、城主・山内一豊のひとり娘・与祢が亡くなっています(山内一豊の娘・与祢と天正地震)。

地震は歴史の流れをどう変えたのか
天正地震のあと、秀吉と家康の関係は、「戦」から「縁組」へと大きく動きました。その流れを年表で見てみましょう。
| 年月 | 出来事 |
|---|---|
| 天正13年11月13日 | 石川数正が家康のもとを出奔 |
| 天正13年11月29日 | 天正地震。大垣城などが壊れる |
| 天正14年1月 | 秀吉が家康攻めを取りやめ、織田信雄を通じて和睦を探る |
| 天正14年5月 | 秀吉の妹・旭姫が家康に嫁ぐ |
| 天正14年10月 | 秀吉の母・大政所が人質として岡崎へ。家康が上洛し、秀吉に臣従 |
数正の出奔で徳川の内情を知った秀吉は、本来なら家康を攻める絶好の機会を手にしていました。ところが、そのわずか16日後に地震が起き、秀吉は攻める力そのものを失います。秀吉は武力で家康を従わせることをあきらめ、妹と母を差し出す縁組の道を選びました(秀吉はなぜ44歳の妹・旭姫を嫁に出すしかなかったのか)。
もし天正14年に秀吉と家康が全面的に戦っていたら、のちの関ヶ原も江戸幕府もなかったかもしれません。天正地震は、日本の歴史の分かれ目になった地震だったといえます。
調べていて一番驚いたのは、被害がほとんど秀吉の側に集中していたことです。石川数正が出奔して、秀吉にとっては家康を攻める絶好の機会だったはずなのに、そのわずか16日後に足元の大垣城が崩れてしまう。戦国の勝ち負けは、武将の知恵や兵の数だけでなく、こうした「運」にも大きく左右されたのだと、あらためて思いました。
そしてこの地震の話になると、私はいつも司馬遼太郎の『功名が辻』で、一豊と千代が娘の与祢を失って取り乱す場面を思い出します。一豊と千代は本当に仲の良い夫婦だったようで、そのあと二人のあいだに子どもは生まれず、跡継ぎには一豊の弟・康豊の子(のちの土佐藩主・山内忠義)を迎えることになりました。たった一人の娘を地震で失い、その後も子に恵まれなかった千代の胸のうちを思うと、本当に無念だったろうと胸が痛みます(山内一豊の娘・与祢と天正地震)。
伏見城や聚楽第は崩れたのか ─ 慶長伏見地震とのちがい
「秀吉の時代の大地震で伏見城が崩れた」という話を聞いたことがある人も多いでしょう。ただしそれは天正地震ではなく、10年後の文禄5年閏7月13日(西暦1596年9月5日)に起きた慶長伏見地震のことです。
| 天正地震 | 慶長伏見地震 | |
|---|---|---|
| いつ | 天正13年11月29日(1586年1月18日) | 文禄5年閏7月13日(1596年9月5日) |
| 規模 | マグニチュード8前後と推定 | マグニチュード7.5前後と推定 |
| 主な被害地 | 飛騨・越中・美濃・尾張・伊勢・近江 | 京都・伏見・畿内 |
| 秀吉の城 | 大垣城・長浜城などが倒壊(秀吉は坂本城から大坂城へ) | 伏見城の天守が倒壊(秀吉は無事) |
| そのほか | 帰雲城が埋没 | 方広寺の大仏が大きく壊れる |
慶長伏見地震では、秀吉が隠居の城として築いた伏見城の天守が崩れ、城内でも多くの死者が出ました。秀吉はすぐに近くの木幡山に城を築き直しています。このとき、謹慎中だった加藤清正が真っ先に駆けつけて許されたという「地震加藤」の話が有名ですが、後世の創作とする見方もあります。京都の方広寺の大仏も、この地震で大きく壊れました(方広寺の大仏とは)。
なお、聚楽第は天正15年(1587)に完成した城で、天正地震のときにはまだありませんでした。また、慶長伏見地震の前年の文禄4年(1595)、秀次事件のあとに秀吉自身が取り壊しています。聚楽第が地震で崩れたという記録はありません(聚楽第とは)。
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よくある質問
Q. 天正地震はいつ起きたのですか?
A. 天正13年11月29日(西暦1586年1月18日)の夜です。
Q. 天正地震で秀吉と家康のどちらが大きな被害を受けたのですか?
A. 秀吉方です。家康攻めの前線基地だった大垣城が全壊・焼失し、長浜城や長島城なども倒壊しました。家康の領地では大きな被害の記録は見当たりません。
Q. 天正地震で亡くなった有名な人物はだれですか?
A. 帰雲城の内ヶ島氏理とその一族、木舟城の前田秀継(前田利家の弟)夫妻、長浜城の山内一豊の娘・与祢などです。
Q. 天正地震で伏見城や聚楽第は崩れたのですか?
A. いいえ。伏見城の天守が崩れたのは、10年後の慶長伏見地震(1596年)です。聚楽第は天正地震のあとの天正15年に完成し、地震で崩れた記録はありません。
Q. 天正地震がなければどうなっていたのですか?
A. 秀吉は天正14年正月に家康攻めの兵を出していた可能性が高いと考えられます。地震によって秀吉は攻める力を失い、旭姫の縁組と大政所の人質による和睦へ方針を変えました。
まとめ
天正地震は、秀吉方の城と兵糧を壊し、家康の領地はほとんど無事に残しました。石川数正の出奔で家康攻めの好機をつかんでいた秀吉は、わずか16日後の地震でその力を失い、妹と母を差し出す縁組の道を選びます。こうして家康は戦わずに豊臣政権の重臣となり、のちの天下取りへの道が開けました。一夜の地震が、戦国の終わり方を変えたのです。
参考:『家忠日記』/『兼見卿記』/ルイス・フロイス『日本史』/寒川旭『秀吉を襲った大地震』平凡社新書
