大河ドラマ『豊臣兄弟!』に登場する絵師・狩野永徳。信長の安土城や秀吉の大坂城に絵を描いた永徳は、天下人に仕える絵師でした。その狩野派は、永徳が亡くなったあとも絶えることなく、江戸時代には幕府の御用絵師として二百数十年にわたって日本の絵の世界の中心に立ち続けます。この記事では、永徳の孫・探幽が江戸に下ってから、狩野派がどのように幕府の絵師の家になり、どこにどんな絵を残したのかをたどります。
- 永徳が天正18年(1590)に亡くなったあと、狩野派は子の光信・孝信が支え、京で仕事を続けました
- 永徳の孫・探幽は元和3年(1617)に江戸に召されて幕府の御用絵師となり、のちに江戸鍛冶橋に屋敷を与えられました
- 探幽とその弟たちの家から「奥絵師」四家が生まれ、旗本と同じ格で将軍に仕えました。その下に表絵師、さらに町狩野が連なります
- 京に残った山楽・山雪の系統は「京狩野」と呼ばれます。探幽の二条城二の丸御殿や名古屋城上洛殿の障壁画は、いまも見ることができます
永徳の死と、残された一門
狩野永徳は天正18年(1590)、四十八歳で亡くなりました。くわしくは狩野永徳とはで紹介していますが、そのころの狩野派は、秀吉の大坂城や聚楽第など大きな仕事を抱えたまっただ中にありました。

狩野永徳のイメージ(イラスト)
跡を継いだのは長男の光信と次男の孝信です。光信は父の力強い画風とは違い、大和絵風の繊細な絵を得意としました。孝信は宮中の御用を務め、紫宸殿の賢聖障子絵を描いています。豊臣の世から徳川の世へ移る難しい時期を、この兄弟がつないだことになります。
探幽、江戸へ
狩野派を江戸の幕府と結びつけたのは、孝信の子・守信、のちの探幽です。探幽は慶長17年(1612)、十一歳で駿府の徳川家康に会ったと伝わります。元和3年(1617)には江戸に召されて御用絵師となり、元和7年(1621)には江戸城の鍛冶橋門の外に屋敷を与えられて、以後は江戸を拠点に仕事をしました。
天下人に仕える絵師という永徳の立場を、探幽は徳川将軍家のもとで受け継いだといえます。豊臣と深く結びついていた狩野派が、時代が変わっても生き残れたのは、探幽が早くから徳川に仕えたことが大きかったのです。
奥絵師四家と表絵師
探幽には尚信・安信という弟がいて、三人はそれぞれ幕府に仕える家を立てました。探幽の家は屋敷の場所から鍛冶橋家、尚信の家はのちに木挽町家、安信の家は中橋家と呼ばれ、中橋家が狩野家の宗家とされます。これに、のちに分かれた浜町家を加えた四家が「奥絵師」です。
奥絵師は旗本と同じ格で、将軍に直接お目見えでき、刀を差すことも許されていました。その下には「表絵師」と呼ばれる十五家ほどの狩野の家があり、さらにその下に、町の人びとの注文に応じる「町狩野」がいました。幕府の役人の組織とよく似た、上から下へ連なる大きな絵師の集団です。
奥絵師のなかでも、はじめは探幽や安信が一門をまとめる役(触頭)を務めましたが、のちには木挽町家がその役を担うようになります。江戸時代の後半に活躍した狩野派の絵師の多くは、この木挽町家から出ています。
大名たちの御用絵師
狩野派の絵師は、幕府だけでなく各地の大名家にも御用絵師として抱えられました。城や御殿を建てれば襖や壁を飾る絵が要り、婚礼や贈り物にも屏風や掛軸が欠かせません。大名家は江戸の狩野家に弟子入りした絵師を国元に置き、狩野派の画風は全国に広がっていきました。
京狩野 ─ 京都に残った人びと
探幽たちが江戸に移る一方で、京都に残った一派もいました。中心となったのは永徳の弟子・狩野山楽で、もとは浅井家の家臣の家に生まれたといわれます。山楽は大覚寺宸殿の「牡丹図」などを残し、その養子・山雪も妙心寺天球院の障壁画などを描きました。この系統は「京狩野」と呼ばれ、江戸の狩野派とは別の流れとして続きました。
狩野派の絵が残る場所
探幽たちが描いた障壁画は、いまも各地で見ることができます。代表的なのが、寛永3年(1626)、後水尾天皇の行幸に合わせて描かれた二条城二の丸御殿の障壁画です。大広間の松の絵は、将軍の権威を見せるための大きな画面として知られています。
寛永11年(1634)には、名古屋城本丸御殿の上洛殿に水墨の障壁画を描きました。この絵は第二次世界大戦のとき建物から外して疎開させていたため、空襲で御殿が焼けても失われずに残りました。寛永18年(1641)には大徳寺方丈の障壁画も手がけています。
江戸時代の後半には、木挽町家の狩野養信が、たびたび焼けた江戸城の西の丸や本丸御殿の再建で、膨大な障壁画の制作を指揮しました。
幕府の終わりと狩野派
狩野派は幕府という大きな注文主に支えられた絵師の集団でした。そのため、江戸幕府が終わると、職業としての狩野派もその役目を終えます。ただ、木挽町家で学んだ狩野芳崖と橋本雅邦は、明治の日本画の中心となる画家になりました。永徳から始まる狩野派の技は、かたちを変えて近代の日本画に受け継がれたのです。
よくある疑問
Q. 狩野探幽は狩野永徳とどういう関係ですか?
探幽は永徳の孫です。永徳の次男・孝信の子にあたります。
Q. 奥絵師とは何ですか?
江戸幕府に仕えた狩野派の最上位の家で、鍛冶橋・木挽町・中橋・浜町の四家を指します。旗本と同じ格で、将軍に直接お目見えできました。
Q. 狩野派の絵はどこで見られますか?
二条城二の丸御殿や名古屋城本丸御殿、大徳寺などで見られます。公開の時期や方法は施設ごとに異なるので、訪れる前に確かめてください。
まとめ
永徳のあと、狩野派は光信・孝信の兄弟が支え、孫の探幽が江戸に下って幕府の御用絵師になりました。探幽と弟たちの家は奥絵師四家となり、表絵師や町狩野、各地の大名家の御用絵師まで、全国に広がる大きな絵師の集団になります。天下人に仕えた永徳の仕事は、二百数十年にわたって徳川の世の絵を形づくる流れになりました。

