奈良墨とは:興福寺の灯明のすすから生まれた「南都油煙」と、『豊臣兄弟!』才蔵の筆と並んだ奈良の名産

興福寺の中金堂。朱塗りの柱と金色の鴟尾

奈良墨(ならずみ)は、奈良でつくられる固形の墨です。書道で使う固形墨の大部分、一説には九割以上が奈良で生産されていて、2018年には国の伝統的工芸品にも指定されました。

その始まりは、室町時代の興福寺にあります。僧坊でともされた灯明のすすを集めてつくった墨が「南都油煙(なんとゆえん)」と呼ばれて全国に広まり、奈良を墨の町にしました。『豊臣兄弟!』で間宮祥太朗さんが演じる才蔵が奈良の筆屋として描かれるのも、筆と墨がそろって育った町だからこそです。この記事では、奈良墨がどう生まれ、戦国から江戸へどう続いたのかを見ていきます。筆屋の才蔵については 才蔵とは で解説しています。

この記事のポイント
  • 奈良墨は、室町時代のはじめに興福寺の二諦坊で始まった油煙墨が起こりです
  • 寺の町で写経や文書に大量の墨を使ったことが、奈良を墨の産地に育てました
  • 江戸時代の奈良町には四十軒ほどの墨屋が並び、いまも固形墨の大部分が奈良でつくられています
目次

墨はいつ日本に来たのか

『日本書紀』には、推古天皇18年(610年)に高句麗の僧・曇徴(どんちょう)が来日し、絵の具や紙、墨のつくり方を伝えたと記されています。奈良時代には都の役所である図書寮(ずしょりょう)に墨をつくる職人が置かれ、正倉院には当時の墨がいまも残っています。

ただ、このころの墨は松を燃やしたすすでつくる松煙墨(しょうえんぼく)が中心で、奈良墨の名を高めた油煙墨が現れるのは、それから数百年後のことです。

興福寺の二諦坊で生まれた「南都油煙」

室町時代のはじめ、明徳から応永のころ(1390年〜1428年ごろ)、興福寺の二諦坊(にたいぼう)という僧坊で、油を燃やした灯明のすすを集めて墨をつくることが始まったと伝えられています。油煙のすすは松煙より粒がこまかく、つやのある深い黒が出るので、この墨は「南都油煙」と呼ばれて評判になりました。南都とは奈良のことです。

寺では仏前の灯明を毎日ともすので、すすは自然にたまります。写経や法会の記録、寺領の帳簿と、墨を大量に使う場所で、しかも材料まで手に入るという条件がそろっていたことが、寺から名品が生まれた理由でした。興福寺が大和でどれほどの力を持っていたかは 興福寺の別当とは でも扱っています。

興福寺の僧坊で筆をとる老僧のイメージ(イラスト)
興福寺の僧坊で筆をとる老僧のイメージ(イラスト)。記録をもとに描いた想像図です。

筆と墨は、なぜ奈良でそろって育ったのか

筆と墨は、どちらも書くための道具で、使う人が同じです。奈良には興福寺や東大寺をはじめ多くの寺があり、写経をする僧、寺の文書を扱う役僧、そして春日社に参る公家たちがいたので、筆屋と墨屋にとって、これほど確かな客のいる町はほかにありませんでした。

奈良の筆は、唐から戻った空海が伝えた製法から始まったという言い伝えがあり、墨は興福寺の僧坊から広まりました。どちらも寺を土台に育った名産で、奈良の町の商いは寺の需要に深く支えられていたわけです。この構造が、のちに秀長が商いを郡山へ移そうとしたときの対立につながっていきます。詳しくは 才蔵と奈良の豪商はなぜ対立したのか をご覧ください。

戦国の奈良と墨屋:古梅園の創業

いまも奈良で墨をつくり続ける古梅園(こばいえん)は、安土桃山時代の天正年間に松井道珍が創業したと伝えられています。天正年間といえば、秀長が大和に入り、郡山の城下町づくりを進めた時代と重なります。

秀長は奈良での商いを禁じて郡山に集めようとしましたが、墨づくりはその後も奈良の町に根を張り続けました。材料と職人と技術が寺の町に積み重なっていた墨は、城下町へそのまま移せる商いではなかったのかもしれません。秀長の城下町づくりについては 箱本十三町とは で解説しています。

▽ よく語られる話
墨は中国から伝わったもので、日本の墨は中国の墨をまねたものにすぎなかった。
▼ 史実ではこうです
墨そのものは610年に伝わったとされますが、油煙墨を国産の名品に育てたのは室町時代の興福寺でした。寺の灯明のすすという身近な材料から、「南都油煙」という奈良独自の名品が生まれています。

江戸時代の奈良町と墨屋の盛衰

江戸時代に入ると、奈良の墨づくりは町の大きな産業になります。奈良製墨組合によれば、1670年ごろの奈良町には三十軒近い墨屋があり、1710年ごろには四十軒に増えました。

ところが寛保年間(1741年〜1744年)ごろから、紀州の藤白墨(ふじしろずみ)が再び力をつけたことなどで奈良の墨屋は減りはじめ、十八軒ほどにまで落ちこみます。明治維新のころに残っていた墨屋は十一軒ほどでしたが、それでも技は絶えず、いまでは固形墨の大部分を奈良が生産するまでになっています。

奈良墨はどうやってつくるのか

奈良墨は、油を燃やして集めたすす(油煙)に、溶かした膠(にかわ)をよく練り合わせ、香料を加えて木型に詰めて形を整えます。型から出した墨は灰の中に埋めて少しずつ水分を抜き、そのあと吊るして長い時間をかけて乾かします。

膠は暖かいと傷みやすいので、墨づくりは寒い季節の仕事とされてきました。木型に彫られた文様や文字がそのまま墨の表面に浮かぶので、墨は書く道具であると同時に、眺めて楽しむ工芸品でもあります。

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才蔵と奈良の豪商はなぜ対立したのか:『豊臣兄弟!』間宮祥太朗が演じる筆屋と、秀長の「奈良での商売禁止」

寺の需要に支えられた奈良の商いは、秀長の命令にどう抵抗したのか。

よくある質問

Q. 奈良墨とほかの墨は何が違うのですか?
A. 奈良墨は主に油煙を材料にした固形墨で、粒のこまかいすすによる深い黒とつやが特徴です。

Q. 古梅園はいつからあるのですか?
A. 安土桃山時代の天正年間の創業と伝えられ、いまも奈良市内で墨づくりを続けています。

Q. 『豊臣兄弟!』の才蔵と奈良墨は関係がありますか?
A. 才蔵は筆屋として描かれていて、墨屋ではありません。ただ当時の奈良は筆と墨がそろって育った町で、才蔵の筆の客は、同じ町の墨の客でもありました。

まとめ

この記事の要点
  • 墨は610年に伝わったとされ、奈良時代には都の役所で墨がつくられていました
  • 室町時代のはじめ、興福寺の二諦坊で油煙墨が始まり、「南都油煙」として全国に広まりました
  • 江戸時代に奈良町の墨屋は四十軒ほどまで増え、盛衰を経ながら、いまも固形墨の大部分を奈良が生産しています

奈良墨は、寺の灯明という毎日の営みから生まれた名産です。筆とあわせて見ると、奈良という町が、祈りと書く文化の上に商いを育ててきたことがよく分かります。

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