増上寺の将軍の墓の発掘調査でわかったこと:将軍たちの素顔と、和宮の棺から消えた写真

増上寺の将軍墓所を調べる調査員たちのイメージ(イラスト)

※この記事のアイキャッチは、調査の様子を描いたイメージ(イラスト)で、実際の調査写真ではありません。

増上寺の徳川将軍家の墓所は、戦後の昭和三十三年(1958年)から三十五年にかけて改葬されました。このとき東京大学の鈴木尚らによる学術調査が行われ、二代秀忠、六代家宣、九代家重、十二代家慶、十四代家茂らの遺骨が調べられます。将軍たちの身長や顔立ち、歯のすり減り方から、暮らしぶりや体の弱さまでが明らかになりました。そして家茂の正室・和宮の棺からは、若い男性を写したガラスの写真が見つかり、翌日には像が消えてしまったという、不思議な出来事も起きています。

この記事のポイント
  • 戦後の改葬に合わせて、将軍と正室たちの遺骨が学術的に調べられた
  • 将軍たちは細長い顔で、歯のすり減りが少なく、柔らかいものを食べていたとみられる
  • 家茂は歯のほとんどが虫歯。家重は激しい歯ぎしりの跡があった
  • 和宮の棺から若い男性の写真が見つかったが、翌日には像が消えていた
目次

なぜ将軍の墓が掘り返されたのか

増上寺の徳川家霊廟は、昭和二十年(1945年)の空襲でその多くが焼け落ちました。戦後、荒れたままになっていた墓所の土地は整理されることになり、各所に分かれていた将軍や正室の墓を一か所にまとめて改葬することが決まります。その機会に、墓を開けて遺骨や副葬品を調べる総合的な学術調査が行われました。調査の成果は、のちに『増上寺徳川将軍墓とその遺品・遺体』や、鈴木尚の『骨は語る 徳川将軍・大名家の人びと』としてまとめられています。焼ける前の霊廟の姿は徳川家霊廟とはで書いています。

将軍の顔は細長かった|「貴族化」した顔立ち

調査でまず注目されたのは、将軍たちの顔立ちです。六代家宣は、江戸の町人と比べても、現代人と比べても、非常に細長い顔をしていたとされます。鼻が高く、あごが細い顔立ちは代を重ねるごとに強まり、鈴木尚はこれを、身分の高い家に特有の「貴族的」な特徴だと考えました。歯のすり減りも少なく、固いものをかむ必要のない、柔らかい食事をとっていたことがうかがえます。戦場を駆けた家康の時代から、城の奥で育つ将軍へ。体つきそのものが、徳川の二百六十年を映していたのです。家康が天下を手にするまでの道のりは秀吉の死後、なぜ天下は家康に傾いたのかで書いています。

秀忠・家宣・家慶|骨からわかった将軍たちの姿

二代秀忠の遺体は筋肉の発達がよく、腕やすねの毛が黒々と残っていたと記録されています。関ヶ原や大坂の陣を戦った世代の将軍らしい、たくましい体つきでした(大坂の陣については大坂の陣をわかりやすく解説をどうぞ)。六代家宣はかなりの猫背で、父の綱重も同じだったことから、体質を受け継いでいた可能性があります。十二代家慶は身長およそ百五十四センチで、同じ時代の庶民の平均より低く、頭が大きく、あごが前に出た受け口の顔立ちだったとされます。七代家継は幼くして亡くなったこともあり、骨格はほとんど残っていませんでした。

家重の歯ぎしりと、家茂の虫歯

九代家重の歯には、左右交互に強くすり減った跡があり、激しい歯ぎしりをしていたことがわかりました。家重は言葉が不自由だったと伝わる将軍で、調査では何らかの障害があった可能性も指摘されています。一方で、顔立ちは歴代将軍のなかでも整っていたと評価されました。十四代家茂は、歯のほとんどが虫歯になっていたことで知られます。甘いものが好きだったと伝わり、虫歯で体が弱っていたことが、二十一歳での若すぎる死につながったとする見方もあります。家重と家茂がどこに眠っているかは徳川将軍15人の墓はどこにあるのかで確かめられます。

▽ よく語られる話
将軍は毎日ごちそうを食べ、健康で長生きだった。
▼ 史実ではこうです
遺骨からわかるのは、柔らかいものばかりを食べて歯やあごが弱り、運動の少ない生活を送っていた将軍たちの姿です。家茂の虫歯や家慶の低い身長のように、恵まれた暮らしが必ずしも丈夫な体を育てたわけではありませんでした。

和宮の棺の写真|翌日に消えた若い男性の姿

家茂の正室・和宮の棺からは、不思議なものが見つかりました。和宮の遺骨のそばにあった一枚のガラス板で、そこには長袴の直垂に立烏帽子をつけた若い男性の姿が写っていたといいます。当時の湿板写真とみられ、写っていたのは夫の家茂ではないか、それとも和宮のかつての婚約者・有栖川宮熾仁親王ではないかと、さまざまに想像されてきました。ところが翌日、研究室であらためて調べようとしたところ、写真の像は消えてただのガラス板になっていたと伝えられています。

和宮の遺骨からは、身長がおよそ百四十三センチと小柄で、筋肉が少なく、内股で歩くようしつけられた跡が脚の骨に残っていたこともわかりました。また、左の手首から先の骨がどうしても見つからなかったといいます。和宮は京都から江戸へ嫁いだ皇女で、夫の家茂と並んで増上寺に眠っています。将軍たちの墓の場所は徳川将軍15人の墓はどこにあるのかで一覧にしています。

▽ よく語られる話
和宮の棺の写真は、呪いや怨念で消えた。
▼ 史実ではこうです
ガラス板に薬品で像を定着させる湿板写真は、長いあいだ土の中にあったあと、急に空気や光に触れると、像の膜がはがれたり消えたりすることがあります。写真が消えたのは、そうした物理的な理由によるものと考えられています。誰が写っていたのかは、いまも確かめようがありません。

まとめ|骨が語った将軍たちの素顔

増上寺の調査は、肖像画や文書だけではわからなかった将軍たちの素顔を明らかにしました。戦国の気風を残した秀忠のたくましさから、城の奥で育った後の将軍たちの細い顔と弱い歯まで、骨は徳川の二百六十年を静かに語っています。調査のあと、将軍たちは増上寺の徳川将軍家墓所にまとめて葬られ、いまはそこで手を合わせることができます。秀忠の霊廟の姿を伝える模型は台徳院殿霊廟の模型をご覧ください。

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