藤堂高虎(とうどう たかとら)は、近江に生まれ、生涯に七度も主君を替えた武将である。そのため江戸時代以来、変わり身の早い男として語られてきた。だが経歴を順に追うと、主君を捨てたというより、仕えた家が次々に絶えていることが分かる。二十一歳で豊臣秀長に仕えてからは、その家が断絶するまで離れていない。主家が消えたとき、この人は高野山へ上って出家している。そして築城の名手として知られるこの人が最初に手がけたのは、秀長の城 ── 和歌山城だった。
※この記事の絵は、当時の様子を描いたイメージ(イラスト)です。
- 弘治二年、近江国犬上郡藤堂村の生まれ。寛永七年没、七十五歳
- 主君は浅井長政 → 阿閉貞征 → 磯野員昌 → 織田信澄 → 豊臣秀長 → 豊臣秀保 → 豊臣秀吉 → 徳川家康
- 二十一歳で三百石で秀長に仕え、以後十五年つかえた
- 最初の築城は和歌山城と猿岡山城の普請奉行。紀伊粉河で一万石の大名に
- 秀保が早世すると出家して高野山へ上った。秀吉に説得されて還俗
- 今治城で層塔型天守を創始。以後の天守建築の主流になる
- 最終的に津藩三十二万三千石。黒田孝高・加藤清正と並ぶ築城三名人
- 身長は六尺二寸(およそ百九十センチ)。遺骨は傷だらけで、指が何本も欠けていた
七度主君を替えた、と言われる
高虎が仕えた相手を順に並べると、こうなる。
浅井長政、阿閉貞征、磯野員昌、織田信澄、豊臣秀長、豊臣秀保、豊臣秀吉、徳川家康。数えれば七度替わっている。江戸時代の武士の道徳からすれば、褒められた経歴ではない。「渡り奉公人」の代表として語られてきたのも無理はない。
だが、替わった理由を一つずつ見ると、印象が変わる。結城秀康が三つの家を渡ったのが本人の意思でなかったように、この人の移動にも事情がある。
三百石から始まった、秀長との十五年
天正四年、二十一歳の高虎は羽柴秀長に三百石で仕える。三百石は、大名の家臣としては下のほうである。
そこから加増が続く。千三百石、二千石。そして天正十三年、紀伊の平定に従軍し、湯川直晴を降伏させた功で、紀伊粉河に一万石を与えられた。同じ年の四国攻めでも功があり、さらに加増されている。三百石から一万五千石まで、十年足らずで届いた。
この十五年で、高虎は秀長という人の仕事の仕方を見ている。石のない大和で城を建て、紀伊で城を選び、四国へ十万を渡す。戦で手柄を立てる以上に、土地と人と物を動かす仕事である。のちの高虎が城作りの人になったのは、この十五年と無関係ではないだろう。
最初の築城は、和歌山城だった
高虎が普請奉行として最初に手がけたのが、猿岡山城と和歌山城である。
和歌山城は、秀長が自分で城地を選び、自分で縄張りを引いた城だ。その普請を任されたということは、主君の設計を形にする役をもらったということである。この城の石垣の一番下、青緑の平たい石が積まれているあたりが、高虎の最初の仕事にあたる。
そして翌年、高虎は阿波の一宮城を攻める側にまわる。城を建てた人間が、その翌年に城を落としに行った。どこを固めれば保つのか、どこを断てば保たないのか。両方を知っている人間が、このあと日本中の城を作っていく。
和歌山城 ── 豊臣秀長が虎伏山に築いた紀州の城
高虎が普請奉行をつとめた最初の城です。石垣に三つの時代が層になって残っています。
主家が消え、高野山へ上った
天正十九年、秀長が没する。高虎は秀長の甥で養子の秀保に仕え、その代理として朝鮮へも渡った。
ところが文禄四年、秀保も早世する。秀長の家は、ここで絶えた。
このとき高虎が取った行動が、この人を理解する鍵になる。次の仕官先を探していない。出家して高野山に上っている。
四十歳。大名として一万石を超え、朝鮮でも実績を上げた武将である。声をかける家はいくらでもあったはずだ。それでも山に入った。渡り奉公人と呼ばれた人間が、主家が絶えたときにまずしたことが、出家だった。
秀吉はその才を惜しみ、生駒親正を使って説得させる。高虎は還俗し、五万石を加増されて伊予板島(いまの宇和島)七万石の大名になった。
層塔型天守を作った人
高虎の名が築城史に残るのは、天守の作り方を変えたからである。
それまでの天守は望楼型といって、北ノ庄城の天守のように、大きな入母屋の建物の上に物見の櫓を載せる形だった。下と上で構造が違うため、組み方が難しく、工期もかかる。
高虎が今治城で作ったのが層塔型である。四角い天守台の上に、規格をそろえた部材を積み上げていく。各階を別々に作れるので工期が短く、構造も素直になる。
この形を、高虎は江戸城をはじめとする天下普請に持ち込んだ。以後の天守は、ほとんどがこの作り方になる。一人の技術者が、その後の城の姿を決めてしまった例である。
高石垣を高く積み、その上に多聞櫓をめぐらせるやり方も、この人の得意とするところだった。黒田孝高、加藤清正と並んで築城三名人と呼ばれる。
高虎が関わった城
うちで扱っている城の中にも、この人の手が入ったものがいくつもある。
このほか今治城、宇和島城、伊賀上野城、篠山城、膳所城、そして江戸城と大坂城の天下普請にも関わっている。これだけの数を手がけた人物は、ほかにいない。
関ヶ原、そして津三十二万石へ
秀吉の死後、高虎は家康に近づく。関ヶ原では東軍につき、戦後に今治と宇和島をあわせて二十万石を得た。
関ヶ原のあと、家康は高虎を伊賀と伊勢に移す。西国の大名を抑える位置である。築城ができて、西国の事情を知っていて、豊臣の内側を見てきた人間。家康がこの人を重く用いた理由が、配置に出ている。
大坂の陣を経て、最終的に津藩三十二万三千石。外様でありながら、譜代並みの扱いを受けた。
六尺二寸の体と、傷だらけの遺骨
高虎は身長六尺二寸、およそ百九十センチの大男だったと伝わる。同じ秀長の家中にも変わった経歴の者がいたが、体格でこれほど語られる人は珍しい。当時としては、見上げるような背丈である。
幼いころから体が大きく、乳母一人の乳では足りずに何人もの女性から乳をもらった、三歳で餅を五つ六つ平らげた、怪我をしても痛いと言わなかった、といった話が残る。十三歳のときにはすでに兄の背を越えていたという。
そして、この人については遺骨の記録が残っている。
体じゅうが傷だらけで、玉傷も槍傷もあった。右の薬指と小指はちぎれて爪がなく、左の中指も一寸ほど短く、右足の親指の爪もなかった。
城を作った人、という顔で語られることが多い。だが骨に残っていたのは、前に出て戦い続けた人間の体だった。二十一歳で三百石から始めて、指を何本も失いながら三十二万石まで行った。「渡り奉公人」という言葉から想像される要領のよさとは、ずいぶん違う体である。
まとめ
七度主君を替えた、という一行だけを見ると、この人は身軽な世渡り上手に見える。
だが実際に起きたのは、仕える家が次々に消えていったということだった。浅井が滅び、織田信澄が討たれ、秀長が没し、秀保が早世する。そのたびに高虎は行き場を失い、最後には山へ入った。
それでも呼び戻され、関ヶ原を経て、三十二万石の大名になる。この人が持っていたのは要領ではなく、替えの利かない技術だった。
和歌山城の石垣の下のほうに、青緑の平たい石が並んでいる。秀長が選んだ場所に、二十九歳の高虎が積んだ石である。そこから始まって、この人は日本中の城を作った。
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