■ 日本の歴史ブログ
徳川家康に散財させられ続けた豊臣恩顧の大名達
慶長十五年(1610年)徳川家康は、第九男の義直を尾張名古屋城主として任命します。任命すると同時に名古屋城の築城が開始されました。この家康の実子が城主となる名古屋城の築城には加藤清正はじめ、豊臣家にゆかりの深い大名が多く動員されています。
これには家康が豊臣家に縁の深い大名達の忠誠を確かめると同時に、その財力を奪うという意図が現れています。清正は一生懸命石垣工事に励みました。自身の領国九州から職人や人夫など、数百人という人数を引き連れて石垣工事に取り掛かりました。もちろんその費用は莫大なものになります。

しかし、清正は「えいや、えいや」と掛け声をかけて自ら築城指揮にあたった。これが市中の評判になり沿道には多くの人々がその姿を見るために集まってきたといいます。こうして、多くの大名の忠勤により名古屋城は完成をみることになります。
城を建てさせることが、政治だった
徳川家康は、江戸城や名古屋城、駿府城といった城の普請を、諸大名に割り当てて行わせました。天下普請と呼ばれるやり方です。費用も人手も大名持ちですから、引き受けるほど財は減ります。とくに豊臣恩顧の大名にとっては、断れば忠誠を疑われ、引き受ければ懐が痛むという仕組みでした。
加藤清正は、なぜ率先したのか
名古屋城の石垣を担った加藤清正は、国元から職人と人夫を引き連れ、自ら現場で掛け声をかけたと伝わります。城造りの名手としての誇りもあったでしょうが、それ以上に、豊臣に近い立場の大名として「逆らう気はない」と示す必要がありました。清正が熊本城で見せた石垣の技術が、そのまま徳川の城に注がれたことになります。
減った財が、意味を持つとき
普請で財を削られた大名は、いざというときに兵を動かす余力を失います。大坂の陣で豊臣方に加わった大名がほとんどいなかった理由の一つがここにあります。家康は戦う前に、相手の足腰を弱らせていたわけです。秀吉の死後に天下がどう傾いたかは秀吉の死後、なぜ天下は家康に傾いたのかで書いています。
石垣に残る、大名たちの刻印
天下普請の城の石垣には、どの大名が運んだ石かを示す刻印が残っています。名古屋城でも大坂城でも、石を見て回ると印の違いが分かります。城を歩くときの手がかりとして、城の基本用語とあわせて覚えておくと楽しめます。
【名古屋城地図】

