吉田郡山城:毛利元就飛躍の城で広島城へ移転まで本城だった毛利家の吉田郡山城【お城特集 日本の歴史】

吉田郡山城/アクセス・場所・地図 毛利元就飛躍の城で広島城へ移転まで本城だった毛利家の吉田郡山城【お城特集 日本の歴史】

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【城名】
吉田郡山城

【吉田郡山城の説明】
吉田郡山城は広島県安芸高田市吉田町吉田にあった山城である。
築城時期は不明だが吉田荘の地頭職として「毛利時親」が下向し館を作り住んだのが始まりと伝えられている。

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当時の郡山城は、地方の一豪族や地頭の砦や館程度のもので、12代当主「毛利元就」が城主になり、始めて城の大改修が行われた。元就は地方豪族として次男「元春」を吉川家へ、三男「隆景」を小早川家へ養子として送り込み、少しずつ勢力を拡大しつつ西の大内氏や山陰の尼子氏に従いながら毛利家飛躍の時期を見計らっていた。

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天文9年(1540年)、元就が尼子氏の支配から大内氏へ寝返った際には、尼子晴久が3万の軍勢で攻め寄せてきたがこれを見事に撃退している。(吉田郡山の戦い)この頃の郡山城は大改修を行う前と考えられている。

この戦のあと、大内氏では重臣である「陶晴賢」が主家に反旗を翻し、幼君を大内家の養子に迎え実質的支配を行っていた。これを時機到来と考えた元就は晴賢軍を厳島へと誘導し、大群が身動きできない中、少数精鋭による奇襲により陶軍を打ち破った。

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この戦に勝利した元就の行動は素早く、日本海側の「三本松城」をいち早く抑えついに周防・長門・安芸を領する大名にのし上がった。そして、中国地方統一の総仕上げとして山陰の雄「尼子義久」を攻め始める。

永禄5年(1562年)から永禄8年(1565年)にかけて尼子包囲網を敷いた元就はついに義久を降し、山陰地方の統一も果たした。これにより毛利家は120万石以上を領する大大名となった。

元就が死去し嫡孫の輝元が跡を継ぐと、中央では織田信長より取り立てられた羽柴秀吉(豊臣秀吉)が天下をほぼ掌握し、毛利家も秀吉の麾下に加わった。そして、前田利家や徳川家康、上杉景勝、宇喜多秀家らと共に五大老に任命された。

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一方、吉田郡山城は山間部に位置し交通の便にも不便なため、広島の地に城を築き、天正19年(1591年)に広島城がほぼ完成すると毛利家家臣団や商人、町人なども広島の地へと移っていった。ここに毛利家本城としての役割を終えた吉田郡山城は事実上の廃城となった。

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しかし、広島城移転後も何等かの形で吉田郡山城を利用した形跡が残っており完全に廃城となったわけではないようだ。世の中が徳川家の時代に入ると、慶長20年(1615年)幕府が出した一国一城令により吉田郡山城は破却された。






【吉田郡山城・場所・アクセス】
〒731-0501 広島県安芸高田市吉田町吉田郡山

【吉田郡山城地図】



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