坂本龍馬・中岡慎太郎「近江屋事件」──維新の立役者はなぜ京の醤油商の二階で斃れたのか

龍馬遭難之地の石標と二人の肖像パネル
この記事のポイント

  • 慶応3年(1867)11月15日、坂本龍馬と中岡慎太郎は京都・河原町の醤油商「近江屋」の二階で襲われた。
  • 龍馬はほぼ即死、中岡は約2日間生き延びたのち絶命。享年は龍馬33歳・中岡30歳(数え)。
  • 実行犯は京都見廻組が有力とされるが、新選組説・薩摩黒幕説など今も議論が続く未解決の暗殺事件でもある。
  • 二人は東山の京都霊山護国神社に、寄り添うように眠っている。

京都・河原町通から一本入った路地に、そっと立つ石碑と案内板があります。かつてここには醤油商「近江屋」があり、幕末の慶応3年(1867)11月15日の夜、坂本龍馬中岡慎太郎がここで凶刃に斃れました。大政奉還からわずか一か月。新しい国の形が動き出そうとしていた、まさにその瞬間の悲劇です。この記事では、二人の人物像から暗殺当日の様子、いまも解けない「誰が斬ったのか」という謎、そして二人が眠る場所まで、じっくりと辿っていきます。

京都市が建てた「坂本龍馬・中岡慎太郎 遭難之地(近江屋跡)」の案内板
目次

坂本龍馬とはどんな人物だったか

坂本龍馬は天保6年(1835)、土佐藩(現在の高知県)の郷士の家に生まれました。郷士とは、上士(上級武士)の下に置かれた下級武士で、龍馬は身分社会の息苦しさを肌で知りながら育ちます。江戸に出て北辰一刀流の剣術を学び、やがて勝海舟に弟子入り。海軍・貿易・世界の情勢に目を開かれ、脱藩浪士でありながら「海援隊」という日本初の商社兼私設海軍のような組織を長崎で率いるまでになりました。

龍馬の真骨頂は、剣ではなく人と人をつなぐ力にありました。犬猿の仲だった薩摩藩と長州藩を結びつけた薩長同盟(慶応2年)の仲介、そして徳川将軍が自ら政権を天皇に返上する大政奉還の実現へ向けた奔走。武力による倒幕ではなく、なるべく血を流さずに時代を転換させようとした構想力こそ、龍馬が今なお愛される理由です。

中岡慎太郎という同志

共に斃れた中岡慎太郎は、天保9年(1838)土佐国北川郷(現・高知県北川村)の庄屋の家に生まれました。武市半平太の土佐勤王党に加わり、龍馬と同じく脱藩。龍馬が「話し合いによる政権移行」を志向したのに対し、中岡はより武力倒幕に傾き、陸の軍事組織「陸援隊」の隊長を務めました。方向性は違えど、二人は互いを認め合う無二の同志。だからこそ、この夜も中岡は龍馬の隠れ家を訪ね、天下の行方を語り合っていたのです。

暗殺前夜──大政奉還と龍馬の立場

慶応3年10月14日、15代将軍・徳川慶喜は大政奉還を上奏します。その舞台となったのが、龍馬の遭難地からもほど近い二条城でした。260年余り続いた徳川の世が、ついに幕を下ろそうとしていたのです。龍馬はこの新政権の構想(「新政府綱領八策」)を練り、来るべき国家の骨格を描いていました。

しかし、大きな転換点には必ず「それを望まぬ者」がいます。旧幕府方から見れば、龍馬は幕府を追い詰めた張本人の一人。命を狙われる立場であることを、龍馬自身も感じていました。この頃、龍馬は海援隊の本部があった「酢屋」から、土佐藩邸により近い近江屋へと移ったばかり。近江屋へ移ってから、まだ十日ほどしか経っていませんでした。

慶応3年11月15日、その夜

その日は冷たい雨の降る夜でした。風邪気味だった龍馬は母屋二階の奥まった一室にいました。夕刻、中岡慎太郎が訪ねてきて、二人は火鉢を囲み、これからの日本について語り合います。夜になり、軍鶏(しゃも)鍋を食べようという話になり、下男が肉を買いに出かけました。

そこへ「十津川郷士」を名乗る数名の武士が訪ねてきます。取次の者が斬られ、刺客たちは一気に二階へ。抜き打ちの一撃で龍馬は額を深く斬られ、ほとんど即死に近い最期でした。中岡も全身に十数か所の刀傷を負い、瀕死の重傷。刺客は嵐のように去っていきました。中岡はそれでも二日間持ちこたえ、事件の様子を証言したのち、11月17日に息を引き取ります。龍馬33歳、中岡30歳(いずれも数え年)。あまりに早い死でした。

「龍馬遭難之地」の石標と、坂本龍馬・中岡慎太郎の肖像パネル。今も献花が絶えない

わかっている記録と「実行犯」諸説

近江屋事件は、幕末史における最大級のミステリーでもあります。現場に残された「こなくそ!」という掛け声(伊予・土佐方言とも)、下駄、そして刀の鞘。これらを手がかりに、犯人像をめぐって長く議論が続いてきました。

①京都見廻組説(最有力)──明治になってから、元見廻組の今井信郎が「自分たちが龍馬を斬った」と供述しました。指揮したのは佐々木只三郎とされ、見廻組は幕府の治安組織。現在もっとも有力視されている説です。

②新選組説──当初は近藤勇ら新選組の犯行が強く疑われ、近藤は戊辰戦争後にこの嫌疑もあって処刑されました。現在では見廻組説が有力ですが、当時の人々の多くは新選組を疑っていました。

③薩摩藩黒幕説ほか──武力倒幕を進めたい薩摩にとって、平和的な大政奉還を推す龍馬は邪魔だった、とする説。ほかにも紀州藩による報復(いろは丸事件の遺恨)説など、諸説が入り乱れています。決定的な物証がないため、真相は今も闇の中です。

その後──二人が遺したもの

二人を喪った土佐の同志たちの衝撃は大きく、海援隊士らは犯人を新選組と信じて紀州藩士を襲う「天満屋事件」を起こします。しかし時代は止まりません。龍馬の死からわずか一か月後の12月9日、王政復古の大号令が発せられ、翌年には戊辰戦争を経て明治の世が幕を開けました。龍馬が描いた「なるべく血を流さぬ政権移行」という理想は完全には叶いませんでしたが、その構想は確かに新しい国の土台となりました。

二人はどこに眠っているのか

坂本龍馬と中岡慎太郎は、京都・東山の京都霊山護国神社(きょうとりょうぜんごこくじんじゃ)に、隣り合って葬られています。維新の志半ばで倒れた志士たちが数多く眠るこの丘からは、二人が命を賭けた京の街が一望できます。故郷・高知の桂浜には太平洋を見つめる龍馬の銅像が立ち、いまも多くの人が二人を偲んで手を合わせています。

Q&A ここが気になる

Q. 近江屋跡は今どうなっている?
A. 河原町通に面したビルの一角で、石碑と京都市の案内板が立っています。幕末ファンが訪れ、献花が絶えない“聖地”のひとつです。

Q. なぜ龍馬はこんなに人気があるの?
A. 身分の低い立場から、敵対する勢力を結びつけ、時代を大きく動かした“行動力と発想力”が、現代の私たちの心をつかむからでしょう。

Q. 犯人は結局わかったの?
A. 見廻組説が有力ですが、決定的な証拠はなく、学術的にも完全な決着はついていません。

ゆかりの地をめぐる

龍馬の最後の一か月をたどるなら、大政奉還の舞台二条城とセットで訪ねるのがおすすめです。二条城で「時代が変わった瞬間」を感じ、近江屋跡で「その代償」を思う──幕末京都のドラマが立体的に見えてきます。

まとめ

近江屋事件は、新時代の扉が開いたその瞬間に、扉を開けた当人が斃れた悲劇でした。誰が斬ったのかという謎は今も解けません。しかし、龍馬と中岡が命を懸けて描いた「新しい国」の姿は、確かに現代へと受け継がれています。河原町の路地でそっと手を合わせるとき、150年以上前のあの雨の夜に、少しだけ近づける気がするのです。

※享年や実行犯については史料・研究により諸説あります。本記事は現地案内板および一般的な通説に基づいて構成しています。

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