高島城(諏訪の浮城):日根野高吉が築いた瓦のない城と、干拓で遠ざかった諏訪湖

高島城:諏訪湖畔に面していた諏訪氏代々の美しい名城

【城名】
高島城

【高島城の説明】
諏訪湖に面していたお城で、江戸時代前までは湖畔に突き出た水城でした。
しかし、江戸時代初期の干潟開拓により湖畔からは若干離れてしまいました。別名を「諏訪の浮城」などと呼ばれています。

高島城:日根野高吉から諏訪頼水へ諏訪氏代々の美しい名城 高島城【お城特集 日本の歴史】

元々は諏訪氏の居城でしたが徳川家康の関東移封の際に、諏訪氏も高島を離れることになり武蔵の国へ移封となりました。その後、日根野氏が諏訪氏に代わり入封したが、1601年に日根野氏は下野国壬生へ移封となり再び諏訪氏がこの地へ返り咲きました。

高島城:諏訪湖畔に面していた諏訪氏代々の美しい名城 【お城特集 日本の歴史】

先祖歴代の地に戻れた時は感無量だったことと思われます。そして、諏訪氏が高島城に入封し、そのまま明治維新を迎えることになります。なお、諏訪氏がこの地をおさめていた江戸時代には徳川家康の6男「松平忠輝」を預かったり「吉良義周(吉良上野介の孫)」を預かったりしたこともあります。

高島城:諏訪湖畔に面していた諏訪氏代々の美しい名城 【お城特集 日本の歴史】

現在の天守は昭和に復興されたもので資料館を兼ねており、本丸は高島公園として整備されています。私も天守へ登ってみましたが確かに湖畔からは少し離れた場所にありました。
干潟開拓前は、水辺に映るその姿がさぞかし美しかったのだろうと、天守から連想しておりました。

目次

諏訪の浮城・高島城の歴史

高島城は、天正18年(1590年)に豊臣秀吉の家臣・日根野高吉によって設計され、文禄元年(1592年)に着工、慶長3年(1598年)に完成しました。当時は諏訪湖の水と数条の河川が天然の濠の役割を果たし、湖の波が城の石垣にひたひたと迫っていたことから、「諏訪の浮城(うきしろ)」と呼ばれ、水に浮かんでいるかのような美しい姿を誇りました。慶長6年(1601年)に初代藩主・諏訪頼水が入城して以降、10代藩主・諏訪忠礼に至るまでのおよそ270年間、上原城以来の名族・諏訪氏代々の居城となりました。

明治4年(1871年)の廃藩置県を経て、明治8年(1875年)に天守閣は取り壊され、翌明治9年に城跡は「高島公園」として一般に開放されました。その後、市民の高島城への強い愛着によって、昭和45年(1970年)春に天守が復興され、今では諏訪のシンボルとして親しまれています。

高島城の現地写真

ここからは現地で撮影した写真です。石垣や櫓など、城の部分の呼び名は城の基本用語の記事で図解しているので、あわせてご覧ください。

堀に架かる木橋ごしに望む高島城の復興天守

堀に架かる冠木橋ごしに望む高島城の復興天守。かつては諏訪湖の水がここまで迫っていた

高島城の沿革を記した諏訪市の案内板

高島城の沿革を記した案内板(諏訪市)。諏訪梶の紋が中央に描かれる

野面積みの石垣の上に建つ高島城の天守

野面積みの高石垣の上にそびえる高島城の復興天守

復元された高島城の冠木門

復元された高島城の冠木門。奥に城下の町並みが見える

高島城の別名「浮城」を刻んだ石碑

高島城の別名「浮城」を刻んだ石碑(昭和45年の天守復興を記念)

高島城の天守を背にした記念の一枚

高島城の天守を背にして。青空によく映える名城

高島城の幟がはためく天守への石段

「諏訪 高島城」の幟がはためく、天守へと続く石段

高島城:諏訪湖畔に面していた諏訪氏代々の美しい名城 【お城特集 日本の歴史】

屋根に瓦がなかった城

高島城には、ほかの近世の城とはっきりちがう特徴がありました。天守や櫓の屋根に瓦を使わず、薄く割った板を重ねる柿葺き(こけらぶき)だったのです。白壁に黒い板屋根という姿は、瓦屋根の城を見なれた目には独特に映ったはずです。

▽ なぜ瓦を使わなかったのか
諏訪は寒い土地なので、瓦が凍みて割れてしまうから。
▼ もうひとつの説
湖のきわの土地は地盤がやわらかく、瓦の重さに耐えられなかったから、という説もあります。高島城は湖岸の低湿地に築かれた城で、石垣も高く積み上げられていません。寒さ説と地盤説のどちらか一方に決まっているわけではなく、両方が重なっていたと考えるのが自然でしょう。いずれにせよ、土地の条件がそのまま建物の形に出た城でした。

柿葺きの屋根は傷みやすく、葺き替えの手間もかかります。それでもこの形が選ばれたということは、瓦を載せられない事情のほうが大きかったということです。城を見るときに「なぜこの材料なのか」を考えると、その土地の条件が見えてきます。

湖はどこへ行ったのか ─ 干拓が変えた風景

日根野高吉が城を築いたとき、ここには高島村という集落がありました。高吉はその村を丸ごと別の場所へ移し、跡地に城を建てています。湖に突き出た砂洲のような地形で、三方を水に囲まれた、守りに向いた場所でした。

ところが江戸時代に入ると、諏訪湖の周囲では新田をひらくための干拓が進みます。湖岸は少しずつ遠ざかり、城のすぐ下まで来ていた水は引いていきました。いま高島公園から諏訪湖まで歩くと十分ほどかかります。「浮城」という別名だけが、かつての風景を伝えているわけです。

諏訪氏はもともと上原城を本拠としていた一族で、山の城から湖の城へと拠点を移したことになります。山城から平城へという移り変わりは全国どこでも起きたことですが、諏訪の場合はその先に干拓という地形の変化まで重なりました。水城として設計された城が、いつのまにか陸の城になっていったのです。

預かりの城 ─ 松平忠輝と吉良義周

高島城には、幕府から身柄を預けられた人物が住んでいた時期があります。江戸から遠くもなく近くもない諏訪は、そうした「お預け」の場所として使われました。

一人は松平忠輝。徳川家康の六男で、越後高田で六十万石近くを領しながら、大坂の陣のあとに改易されました。各地を転々としたのち諏訪へ預けられ、長い余生をここで過ごしています。九十歳を越えて亡くなったと伝えられ、家康の子のなかで最も長く生きた人物です。

もう一人は吉良義周。赤穂浪士の討ち入りのとき、吉良上野介の家を継いでいた若者で、討ち入りの夜に自らも傷を負いました。しかし幕府は吉良家の不手際を問い、領地を取り上げて義周を諏訪へお預けとします。二十一歳で亡くなり、諏訪の寺に墓が残っています。討ち入りの物語では脇に置かれがちな人ですが、その後始末を背負わされたのはこの人でした。

天守に登って展示を見ていると、こうした預かりの話が出てきます。戦うための城ではなくなったあと、城が何に使われたのかがよく分かる例です。

駐車場と所要時間

気をつけたいのが駐車場です。高島公園の無料駐車場は普通車が十四台しかありません(観光バスは八台)。桜の季節や連休はまず入れないと思ったほうがよく、近くの有料駐車場を使うか、電車で行くのが確実です。JR上諏訪駅からは歩いて十分ほど。諏訪インターチェンジからは車で十五分ほどです。

天守の開館は午前九時から午後五時半まで。十月から三月までは午後四時半までに短くなります。休館は年末の十二月二十六日から三十一日と、十一月の第二木曜日。入館料は大人三百十円、子ども百五十円です。

所要時間は、天守のなかを見るだけなら二十分から三十分。公園をひと回りして冠木橋や角櫓、石垣を見ていくなら四十分から一時間みておけば足ります。諏訪湖の湖畔まで歩いて城の位置関係を確かめるなら、さらに三十分を足してください。半日あれば松本城や高遠城と組み合わせて回ることもできる立地です。

見学順 ─ 冠木橋から角櫓、そして湖へ

入口は堀に架かる冠木橋です。ここから見上げる天守が高島城でいちばん絵になる角度なので、まずこの一枚を撮ってから中へ入ってください。橋の下の堀は、かつて諏訪湖とつながっていた水の名残です。

門をくぐったら、天守へ向かう前に石垣を見ておきます。高島城の石垣は自然石を荒く積んだ野面積みで、高さはそれほどありません。軟弱な地盤に高い石垣を積めなかったことが、ここでも分かります。角には角櫓が復元されていて、城の四隅がどう守られていたかを想像できます。

天守は三層で、内部は資料館です。諏訪氏の資料や城下の様子を見たあと、最上階へ。晴れていれば諏訪湖の向こうに八ヶ岳や北アルプスが見えます。湖がどれだけ離れてしまったかも、ここからだとよく分かります。

下りたら、公園の藤棚と桜を見て回ります。樹齢百五十年という藤があり、桜はおよそ九十本。夜はライトアップされるので、春に訪ねるなら夕方から回るのも手です。最後に湖岸まで歩いて、振り返って城のほうを見てみてください。かつてこの間が水だったと思うと、「浮城」という呼び名が実感として入ってきます。信州の城をもう一つ回るなら、現存天守の松本城までは車で一時間ほどです。

【高島城・場所・アクセス】
〒392-0022 長野県諏訪市高島

【高島城地図】

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【現地取材】諏訪高島城と高島藩 ― 諏訪湖の浮城、老中を出し戊辰を戦った諏訪家三万石

運営者が実際に現地を歩いた、写真つきの記録です。

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