会津若松城(鶴ヶ城)とは
福島県会津若松市にそびえる会津若松城は、「鶴ヶ城(つるがじょう)」の雅名で親しまれる東北屈指の名城である。戦国末期に蒲生氏郷が近世城郭として大改修し、江戸時代を通じて会津松平家の居城となった。そして幕末、戊辰戦争最大の激戦地として、新政府軍の砲撃に一ヶ月にわたって耐え抜いた「落ちない城」として、その名を歴史に刻んでいる。白虎隊の悲劇の舞台としても知られ、いまも多くの人が会津の歴史をしのんで訪れる。

赤瓦をいただく会津若松城(鶴ヶ城)の天守と南走長屋。2011年に幕末当時の赤瓦へ葺き替えられ、日本で唯一の赤瓦天守となった
蘆名氏の黒川城から伊達政宗の奪取まで
鶴ヶ城の前身は、南北朝時代に蘆名氏が築いた「黒川城」である。蘆名氏は会津を代々治めた名門で、戦国時代には南奥州に一大勢力を築いた。しかし戦国末期、米沢から急速に版図を広げた独眼竜・伊達政宗が会津へと迫る。天正17年(1589年)、政宗は摺上原の戦いで蘆名義広を打ち破り、会津を手中に収めた。政宗はこの黒川城を新たな本拠とし、南奥州の覇者としての地位を固めようとした。
だが、その栄華は長くは続かなかった。当時、天下統一を進めていた豊臣秀吉は「惣無事令(私戦禁止令)」を全国に布告しており、これを無視して会津を切り取った政宗の行動は、秀吉の逆鱗に触れることになる。小田原征伐に遅参しながらもかろうじて臣従を許された政宗は、切り取ったばかりの会津を没収され、本拠を岩出山城へと移された。
蒲生氏郷の入封と「鶴ヶ城」の誕生
政宗を監視する要として会津に送り込まれたのが、織田信長の娘婿であり、当代随一の名将と謳われた蒲生氏郷である。近江日野・伊勢松坂を経て会津へ入った氏郷は、黒川の地を「若松」と改め、本格的な近世城郭の建設に着手した。七層とも伝わる壮麗な天守を築き、城の名を「鶴ヶ城」と定めたのも氏郷である。

天守台を支える豪壮な石垣。蒲生氏郷が近江から招いた穴太衆の技が生きる
氏郷は城づくりだけでなく、城下町の整備にも辣腕をふるった。近江から商人や職人を呼び寄せ、楽市楽座を敷いて商業を振興し、会津塗(漆器)など今日まで続く産業の礎を築いた。文武両道に秀で、キリシタン大名でもあった氏郷は、会津92万石の太守として大きな期待を集めたが、惜しくも40歳の若さで病没する。跡を継いだ子・秀行は幼く家中を統率できず、御家騒動の末に下野宇都宮へと減転封となった。
上杉景勝、そして加藤・保科(会津松平家)へ
蒲生氏に代わって会津120万石に入ったのが、上杉謙信の後継者で五大老の一人・上杉景勝である。景勝と執政・直江兼続は、徳川家康の専横に対抗する姿勢を鮮明にし、これが慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの引き金の一つとなった。しかし西軍が敗れると、上杉家は会津120万石から米沢30万石へと大減封され、会津の地を去る。
その後、会津には再び蒲生氏が入るが世継ぎに恵まれず断絶。次いで「賤ヶ岳の七本槍」の一人・加藤嘉明が入封し、子の明成が天守を今日見られる五層の姿に改修し、北出丸・西出丸などの防御施設を整えた。だが加藤氏も会津騒動により改易となる。そして寛永20年(1643年)、三代将軍・徳川家光の異母弟である保科正之が会津23万石の藩主として入った。正之は名君として幕政を支え、以後、会津松平家(保科家)が幕末まで会津を治めることになる。会津藩には正之の定めた厳格な家訓が受け継がれ、後の会津武士の精神的支柱となった。
幕末の悲劇——戊辰戦争と一ヶ月の籠城戦
幕末、会津藩九代藩主・松平容保は京都守護職を務め、動乱の京の治安維持にあたった。だが、それゆえに新政府側から旧幕府勢力の中心と見なされ、戊辰戦争では討伐の標的とされてしまう。慶応4年(1868年)、会津に攻め寄せた新政府軍に対し、会津藩は鶴ヶ城に籠城して徹底抗戦を繰り広げた。

白亜の五層天守。戊辰戦争では新政府軍の砲撃に一ヶ月耐え抜いた
新政府軍の激しい砲撃を浴びながらも、鶴ヶ城は約一ヶ月にわたって持ちこたえた。天守は無数の砲弾を受けて満身創痍となりながらも、ついに落城することはなかった。この壮絶な籠城戦は、鶴ヶ城が「難攻不落の名城」として語り継がれる由縁である。しかし力尽きた会津藩はついに開城。戦後、傷ついた天守は明治政府によって取り壊されてしまった。
白虎隊と飯盛山
会津戦争を語るうえで欠かせないのが、白虎隊の悲劇である。白虎隊は16〜17歳の少年たちで編成された部隊で、戦況の悪化のなか飯盛山へと退いた。そこから城下を見わたした少年たちは、立ちのぼる煙のなかに鶴ヶ城が燃えていると思い込み、主家の滅亡を悟って次々と自刃した。実際には城はまだ落ちておらず、その早すぎる死はいっそう哀切をさそう。

飯盛山に立つ白虎隊士の像。像がのぞむ方向に、燃える鶴ヶ城があった
飯盛山には、彼らが眠る白虎隊十九士の墓があり、今も線香の煙と手向けの花が絶えることがない。少年隊士の像は、彼らが最期に見つめた鶴ヶ城の方角を向いて立っている。

飯盛山にある白虎隊十九士の墓。今も線香の煙と花が絶えない
会津の悲劇に思いをはせながら、静かに手を合わせる参拝者の姿が絶えない。城とあわせて訪れたい、会津の歴史を象徴する場所である。
会津藩校 日新館
会津武士の強さと精神性を育んだのが、藩校「日新館」である。享和3年(1803年)に開設された日新館では、藩士の子弟が10歳から学問と武芸を修めた。白虎隊の少年たちもここで学んでいる。

復元された会津藩校・日新館。白虎隊の少年たちもここで学んだ
会津では入学前の子どもたちにも「什の掟」が説かれ、その結びの一句「ならぬことはならぬものです」は、理屈を超えて筋を通す会津武士の気風を今に伝えている。現在は郊外に往時の姿が復元され、当時の教育を体感できる観光施設となっている。
現在の鶴ヶ城——日本で唯一の赤瓦天守
取り壊された天守は、昭和40年(1965年)に外観復元され、会津のシンボルとしてよみがえった。さらに平成23年(2011年)には、幕末当時の姿を忠実に再現するため、屋根瓦が黒瓦から「赤瓦」へと葺き替えられた。寒冷地仕様の赤瓦をいただく天守は全国でもここだけであり、青空に映える赤瓦の美しさは必見である。

天守最上階から望む本丸広場と会津若松の城下町、そして会津盆地を囲む山々
天守内部は郷土博物館となっており、最上階からは会津若松の城下と、会津盆地を囲む山々を一望できる。春は桜、秋は紅葉、冬は雪化粧と、四季折々に異なる表情を見せてくれる。石垣や濠、走長屋・干飯櫓・鉄門といった見どころも多く、城好きなら時間をかけて歩きたい。
訪れた人の記念に

石垣の上にそびえる赤瓦の天守。会津のシンボルとして親しまれている

白虎隊十九士の墓に線香を手向ける。少年たちの悲劇に静かに手を合わせた

「ならぬことはならぬものです」——什の掟で知られる会津藩校・日新館
会津若松城・場所・アクセス
〒965-0873 福島県会津若松市追手町1−1
