長谷堂城跡(北の関ヶ原):千人が二万を止めた十五日間と、最上義光三十三万石の加増

目次

長谷堂城とは

長谷堂城は、山形盆地の南西端にある独立丘陵に築かれた山城である。麓からの比高差は約八十五メートル。最上氏の本拠山形城を守る、南西の最終防衛線だった。

慶長五年(1600)、この小さな城で十五日間にわたる激戦が行われた。「北の関ヶ原」と呼ばれる慶長出羽合戦である。関ヶ原の本戦がわずか一日で終わったのに対し、長谷堂の攻防は半月続いた。

長谷堂城跡入口の標柱

「長谷堂城跡入口(八幡口)」の標柱。ここから城山へ登る(山形県山形市長谷堂)

幾段もの曲輪と、二重の水堀

現地の案内板は縄張りを具体的に記している。一番高い部分に主郭があり、その下方に幾段もの平坦な曲輪が造成され、間を縫うように通路が造られています

長谷堂城跡公園の案内板

「長谷堂城跡公園」の案内板。航空写真と推定復元図、詳細な縄張図が並ぶ

守りは山の上だけではない。南は本沢川が天然の堀の役割を果たし、西から北端を廻り東側にかけては一部二重の水堀と土塁が巡っていた。しかもその配置が巧妙で、内側の水堀と土塁は内町・西向地区を、外堀は出倉地区を包んで、城郭と町場の双方を防衛する構造になっていたという。

山と川と二重の水堀。城だけでなく町ごと守る。案内板が「最上随一の堅城」と書くのは誇張ではない。

長谷堂城跡に残る水堀跡

水堀の跡。土塁は失われたが、堀の一部は今も水路として水を通している

土塁は失われた。それでも堀は水路として生き残り、四百年たったいまも水を流している。城の輪郭が、農業用水として現役で使われているのである。

千人が、二万を止めた

慶長五年九月、会津の上杉景勝がひきいる精兵二万余のうち、重臣・直江山城守兼続の軍が最上義光の領地へなだれこんだ。九月十三日朝に畑谷城を攻め落とし、翌十四日には菅沢山に本陣を置いて、長谷堂城を包囲する。

長谷堂城の戦いの案内板

「長谷堂城の戦い」の案内板。合戦の推移が簡潔にまとめられている

守将は義光の信頼厚い智将志村伊豆守光安、副将は豪勇で知られた鮭延越前守秀綱城兵は推定でわずか千ほどだった。

案内板はこう続ける。当初は直江方の圧倒的な兵力に押され気味だったが、次第に地の利を生かした固い防衛と城兵の奇襲攻撃が功を奏し、さすがの直江も攻めあぐんだ。戦いは膠着状態となる、と。

二十倍の兵力を、半月止めた。臼井城が上杉謙信を撥ね返したのと同じことが、四十年後に出羽で起きたことになる。

十五日間、終わった戦争を戦っていた

この合戦でいちばん胸に迫るのは、時間のずれである。

慶長の役 長谷堂城の合戦の案内板

「慶長の役 長谷堂城の合戦」の案内板。両軍布陣図と、日ごとの経緯時系列表が示されている

案内板の時系列表を追うと、こうなる。九月十五日、関ヶ原の戦いはこの日一日で終結し、東軍が勝利した。そして同じ九月十五日、長谷堂城の合戦が開戦し、両軍が激突している。

関ヶ原の結果が両陣営に届いたのは九月三十日である。つまり十五日間、直江兼続も志村光安も、天下の趨勢がすでに決していることを知らずに戦い続けていた。

報せを受けた兼続は「戦いは、もはやこれまで」と決断し、十月一日、立ちこめた朝霧のなかで全軍撤退を開始する。逃げる直江軍を最上・伊達軍が追い、長谷堂から富神山の周辺は修羅の場となった。この戦いの戦死者は上杉一六〇〇、最上・伊達六〇〇、合計およそ二二〇〇。案内板は「史上まれに見る大激戦であった」と記す。

兼続が上杉領の荒砥城へ帰着したのが十月三日、上杉軍の撤退完了が十月八日。慶長出羽合戦そのものが終息するのは、翌慶長六年五月まで待たねばならなかった。

戦場に行かなかった功績

戦後の処遇が、この合戦の意味を教えてくれる。

慶長七年正月、最上義光は山形二十四万石から五十七万石へ。逆に上杉景勝は会津百二十万石から米沢三十万石へ減封された。

義光の加増幅は三十三万石。案内板はその理由をはっきり書いている。家康は、関ヶ原へ向かう徳川軍が背後から上杉軍に追撃されることを防いだこと、そして関ヶ原合戦への上杉軍の参戦を阻止したのは義光が上杉軍を牽制したためであることを高く評価した。とりわけ長谷堂城の攻防で上杉軍を最上領内に釘付けにしたことを論功大とし、関ヶ原に直接参戦した諸大名に勝るとも劣らない異例の大加増で応えた——と。

ここが面白い。義光の最大の功績は、勝ったことではなく、敵を来させなかったことだった。関ヶ原の本戦に一兵も送らなかった大名が、参戦した諸将を上回る恩賞を受け、全国五位の大大名になっている。合戦の評価とは、必ずしも戦場での働きだけで決まるものではない。

案内板は最後をこう結ぶ。この最上領の城下町・山形は大きな発展を遂げ、新時代の幕開けを迎えた。近世から現代まで連綿と続く山形の都市形成や発展は、およそ四百年前にこの地で激戦を繰り広げた長谷堂城の合戦の戦功によるものといっても過言ではない、と。「長谷堂合戦・激動の十五日間」が、今日の山形の礎を創った。

長谷堂城の現地写真

長谷堂城・場所・アクセス

〒990-2321 山形県山形市長谷堂
JR「山形駅」から車で約20分、またはバス。山形自動車道 山形蔵王インターから車で約20分。長谷堂城跡公園として整備され、駐車場がある。

登城口は八幡口・大手門口・西向口などがある。山頂まで四十五分から一時間半程度。本沢コミュニティセンターにボランティアガイドの案内窓口がある。山頂からは山形盆地と、直江兼続が本陣を置いた菅沢山、追撃戦の舞台となった富神山が見渡せる。

長谷堂城ゆかりの城

  • 御館(新潟県上越市)… 謙信が上杉憲政のために築いた館。御館の乱の舞台
  • 山形城(山形県山形市)… 最上義光の本拠。長谷堂が守り抜いた城
  • 米沢城(山形県米沢市)… 合戦後、上杉氏が三十万石で移された城。直江兼続の居城となる
  • 福島城(福島県福島市)… 同じ時期、上杉方の本庄繁長が伊達政宗を受け止めていた城
  • 会津若松城(福島県会津若松市)… 上杉景勝が百二十万石を領した本拠
  • 上山城(山形県上山市)… 慶長出羽合戦で上杉方の攻撃を受けた最上方の城
よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!
目次