甲相駿三国同盟は本当にあったのか|武田・北条・今川を結んだ3つの婚姻と、善得寺の会盟という俗説 ─ 嫁いだ娘たちのその後

小田原城で関東の絵図を囲む北条家の評定のイメージイラスト

武田信玄、北条氏康、今川義元の3人が結んだ甲相駿三国同盟は、天文23年に成立した実在の同盟です。ただし有名な「善得寺で三者が顔を合わせた」という会盟のほうは、俗説とされています。この同盟は3つの婚姻だけで組み上げられました。娘を交換して三角形を作る、政略結婚のいちばん大きな実例です。そして同盟が壊れたとき、嫁いだ娘たちがどうなったのかまで、記録がかなり残っています。

※この記事の絵は、いずれも当時の様子を描いたイメージ(イラスト)です。

この記事のポイント
  • 同盟そのものは史実です。天文23年、武田信玄・北条氏康・今川義元の3者で成立しました
  • 結び方は3つの婚姻だけ。たがいの娘を相手の跡継ぎに嫁がせ、三角形に閉じています
  • 天文21年に今川義元の娘・嶺松院が武田義信へ、天文22年に武田信玄の娘・黄梅院が北条氏政へ、天文23年に北条氏康の娘・早川殿が今川氏真へ嫁ぎました
  • 「善得寺で3人が会った」という会盟は俗説とされます。出典が北条側の軍記に限られ、記録にも誤りがあるためです
  • 永禄11年12月、武田と徳川が駿河へ攻め込んで同盟は決定的に壊れました
  • 嫁いだ3人の運命は分かれます。黄梅院は北条家に残って没し、早川殿は夫と徒歩で城を落ち延び、嶺松院は実家へ戻ったのち徳川家に仕えました
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同盟は史実、会盟は俗説

甲相駿三国同盟が結ばれたこと自体は確かです。甲斐の武田、相模の北条、駿河の今川という、隣り合って争ってきた3つの大名家が、同時に手を結びました。背中を気にせず、それぞれ別の方角へ兵を向けられるようにするためです。

いっぽう、よく語られる善得寺の会盟── 駿河の善得寺に3人が集まり、太原雪斎の仲立ちで同盟を結んだという場面は、俗説とされています。理由は3つ挙げられます。戦国大名が直接顔を合わせる機会は極めて稀だったこと。出典が北条側の軍記に限られ、しかもその記録に誤りがあること。そして当時の武田は上杉との争いが切迫していて、信玄が駿河まで出向く余裕があったとは考えにくいことです。

なお研究者の大石泰史氏は、同盟を結ぶころに近くの興国寺城で行われた会談が、のちに善得寺での会談として誤り伝えられた可能性を指摘しています。まったくの作り話ではなく、別の場所の話が入れ替わったのかもしれないということです。

3つの婚姻で、三角形を閉じる

▷ 三国同盟を作った3つの婚姻
  • 今川 → 武田 天文21年、今川義元の娘・嶺松院が、信玄の嫡男・武田義信に嫁ぐ
  • 武田 → 北条 天文22年、武田信玄の娘・黄梅院が、北条氏康の子・氏政に嫁ぐ。当初は兄の氏親に嫁ぐ予定でしたが、氏親が急死したため氏政に変わりました
  • 北条 → 今川 天文23年、北条氏康の娘・早川殿が、今川義元の子・氏真に嫁ぐ

見てのとおり、今川から武田へ、武田から北条へ、北条から今川へと、娘が一方向に回っています。どの2家をとっても、間に娘と孫が入る形です。人質を交換するのではなく、次の世代を共有することで結んだわけです。人質と婚姻の違いは政略結婚と人質はどうちがうのかでまとめました。

同盟はどう壊れたのか

崩れはじめたのは永禄8年です。武田義信が父の信玄と対立し、同年10月に幽閉されて、翌年病死しました。義信の妻は今川義元の娘・嶺松院です。今川とつながる跡継ぎが消えたことで、武田と今川を結ぶ糸が切れました。

永禄10年6月には、今川氏真が甲斐への塩止めを行います。海を持たない武田にとって、塩を止められるのは経済封鎖です。同年11月、氏真は嶺松院を駿河へ返すよう求めますが、信玄は同盟破棄につながるとして渋りました。そのあと氏真は上杉謙信との交渉を進め、武田は徳川と今川領を分ける密約を結びます。

そして永禄11年12月、武田と徳川が駿河へ攻め込みました。これで同盟は決定的に壊れます。このあと北条は武田と手を切り、上杉と結びます。その越相同盟で上杉へ送られたのが、北条氏康の七男・三郎、のちの上杉景虎でした(武田勝頼はなぜ御館の乱で景虎を見限ったのか)。

嫁いだ3人は、そのあとどうなったのか

婚姻で結んだ同盟が壊れると、いちばん立場が危うくなるのは嫁いだ娘です。3人の行き先は、はっきり分かれました。

▶ 3人のその後
  • 黄梅院(武田→北条) 実家の武田が北条と手を切っても、北条家に残りました。小田原城で氏政の正室として生涯を終えています。離縁されて甲斐へ送り返されたという話も語られますが、いまはその説は否定されています
  • 早川殿(北条→今川) 駿河へ武田が攻め込んだとき、夫の今川氏真とともに遠江の掛川城へ、徒歩で逃れたと記録されています。輿も用意できないほどの落ち延び方でした
  • 嶺松院(今川→武田) 夫の義信が死んだあと、氏真の求めで駿河へ戻りました。出家して貞春尼と名のり、のちに徳川秀忠の教育を任されて徳川家に仕えています

3人とも、同じ仕組みで嫁いだのに結末がまるで違います。残った人、逃げた人、実家へ戻って別の家で生き直した人。婚姻同盟が壊れたとき、娘の運命を決めるのは嫁ぎ先の都合でした。戦国に嫁いだ娘が実家へ帰れたのはどんな場合かは戦国に嫁いだ娘は実家へ帰れたのかでまとめています。

よくある疑問

Q. 甲相駿三国同盟は本当にあったのですか。
A. はい。天文23年に武田信玄・北条氏康・今川義元のあいだで成立しました。

Q. 善得寺で3人が会ったというのは本当ですか。
A. 俗説とされています。出典が北条側の軍記に限られ、記録にも誤りがあるためです。近くの興国寺城での会談が誤り伝えられた可能性も指摘されています。

Q. どんな婚姻で結ばれたのですか。
A. 今川義元の娘が武田義信へ、武田信玄の娘が北条氏政へ、北条氏康の娘が今川氏真へ。娘が一方向に回る三角形です。

Q. いつ壊れたのですか。
A. 永禄11年12月、武田と徳川が駿河へ侵攻して決定的に壊れました。

長久保城跡 今川・武田・北条が向き合った境目の城
今川・武田・北条が国境で向き合った長久保城の跡(長久保城跡(長泉町))

まとめ

甲相駿三国同盟は、戦国でもっとも大きな婚姻同盟でした。人質を取り合うのではなく、娘を一方向に回して三角形を閉じる。次の世代に3家の血を混ぜることで、争う理由そのものを消そうとした仕組みです。

そして実際に14年ほど保ちました。壊れたのは、武田の跡継ぎが今川の娘を妻にしていたからこそ、その跡継ぎが消えたときに一気に緩んだためです。血でつないだ同盟は、血が途切れると弱い。人質なら代わりを出せますが、婚姻は代わりがききません。3人の娘のその後が、そのことをよく示しています。

この3家が国境で向き合っていた場所には、いまも城跡が残ります。長久保城跡(長泉町)は、今川・武田・北条が顔を突き合わせた境目の城です。

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