- 白山林で秀次隊が壊滅したのと同じ日、長久手では家康本隊が池田恒興・森長可の中入り本隊を壊滅させた
- この戦いで初めて名を上げたのが、当時無名だった22歳の井伊直政である
- 直政は前年、武田の旧臣ら約120人を付けられ、甲冑を赤で統一した「赤備え」を編成していた
- 長久手はその赤備えを率いての初陣で、先陣を切って敵陣に突撃し「井伊の赤鬼」の異名を得た
- この武功で家康の信頼を得た直政は、翌年6万石に加増され、のちの徳川四天王への道を歩み始める
天正十二年(1584年)四月九日、白山林で秀次隊が壊滅したのと同じ日、少し離れた長久手では、家康本隊が池田恒興・森長可の中入り本隊を捕捉し、これも壊滅させていた。この戦闘で初めて武名を上げたのが、当時まだ無名だった二十二歳の若者、井伊直政である。
「赤備え」はなぜ生まれたのか
直政は永禄四年(1561年)生まれ。十四歳のときに家康に見出され、井伊万千代の名で近侍するようになった。天正十年(1582年)、武田氏が滅亡し、後北条氏との講和にともなって武田の旧臣およそ百二十人が家康の下に付けられると、家康はこれを直政に預けた。その際、兜や鎧をはじめ戦で用いる装備のすべてを朱色で統一させたのが、のちに「井伊の赤備え」と呼ばれる部隊である。武田の精鋭部隊が用いた朱色の意匠を、家康はあえて直政に継承させたことになる。
二十二歳の初陣
小牧・長久手の戦いは、この赤備えを率いての直政の初陣だった。兜には鬼の角のような立物をあしらい、朱色の具足に身を包んで先陣を切り、長槍で敵を蹴散らしていくその姿は、やがて「井伊の赤鬼」と恐れられるようになる。無理を承知で先鋒として突撃し、敵の陣形を崩す戦い方を得意としたと伝わる。
森長可隊との激突
長久手では、井伊の赤備えは森長可の部隊と激突した。最終的に長可を討ち取ったのは水野勝成隊の鉄砲だったとされるが、赤備えの先鋒としての奮戦が、織田・徳川方を優勢に導いたことに変わりはない。無名の若者が、初陣でいきなり戦場の主役の一人になった一戦だった。
「井伊の赤鬼」、その後
この武功により、直政は家康からの評価を大きく上げ、翌年には六万石に加増された。以後も赤備えを率いて各地を転戦し、のちに酒井忠次・榊原康政・本多忠勝と並んで「徳川四天王」の一人に数えられるようになる。無名の二十二歳が「井伊の赤鬼」として名を知られるようになった原点は、この長久手の一戦にあった。

