秀長は寺社の国・大和をどう治めたのか:興福寺の寺領を五分の一に、多武峰を郡山へ移した「大和大納言」

大和郡山城/アクセス・地図・場所 豊臣秀長の大和・紀伊・和泉100万石の居城 郡山城

豊臣秀長が天正十三年(1585年)に入った大和は、興福寺や春日社、多武峰などの寺社が広大な領地を持ち、僧兵や寺に仕える武士が力をふるう、全国でも指折りの治めにくい国でした。秀長はまず寺社に武器を差し出させ、持っている土地と年貢を書き出させて調べ上げ、興福寺の領地を入国前の五分の一ほどにまで減らします。さらに奈良での商売を禁じて商人を郡山に集め、多武峰の神まで郡山へ移させました。寺社の国を武家の国へ作り替えたこの手腕が、秀長を「大和大納言」と呼ばせることになります。

この記事のポイント
  • 入国直後に多武峰へ武器の提出を命じ、寺社の武装を解いた
  • 寺社に土地と年貢を書き出させ(指出)、興福寺の領地は入国前の五分の一ほどに
  • 奈良での商売を禁じて郡山に商人を集め、城下町を一気に育てた
  • 多武峰の神を郡山へ移させたが、秀長が病に倒れると「たたり」と噂され元に戻された
目次

大和はなぜ治めにくい国だったのか

大和には、鎌倉時代から室町時代を通じて武家の守護が根づかず、興福寺が実質的な国の支配者として振る舞ってきました。国内の武士の多くは、興福寺に属する「衆徒」や春日社に仕える「国民」として寺社に結びつき、寺社の領地は国じゅうに入り組んでいました。戦国時代には松永久秀が力で押さえこもうとし、筒井順慶が寺の衆徒から大名へとのし上がりましたが、寺社の力そのものを崩すことはできませんでした。その仕組みは衆徒とは何者かで、秀長がなぜこの国を任されたのかはなぜ秀長は大和郡山に百万石を与えられたのかで書いています。

まず武器を取り上げた|多武峰への命令

秀長が大和に入った天正十三年の八月、多武峰寺に対して、弓や槍、鉄砲、具足、兜、刀などの武具をすべて差し出すよう命じました。多武峰は藤原鎌足をまつる山の寺で、長く武装して興福寺とも争ってきた勢力です。寺社が武器を持つかぎり、領主の命令は通りません。秀長は国を治める最初の一歩として、寺社の武力を取り上げることから始めたのです。これは、三年後に秀吉が全国で行う刀狩の先取りでもありました。刀狩の意味は太閤検地と刀狩とはで詳しく書いています。

寺社の土地を調べ上げた|指出と検地

同じ年の九月、秀長は寺社や村々に、持っている土地とそこから取れる米の量を書き出して差し出すよう命じました。これを「指出(さしだし)」といいます。興福寺の僧が書いた『多聞院日記』には、寺が丸一日かけて書き出したことが記されています。そして九月の終わりには、興福寺の領地から一万石を減らすという知らせが届きました。翌年には、申告と実際の違いが七千石あまりも見つかったとして、さらに領地が取り上げられます。こうして興福寺の領地は、秀長が来る前のおよそ五分の一にまで小さくなりました。寺の側から見たこの時代の記録は多聞院日記とはで紹介しています。

▽ よく語られる話
秀長は温厚な人柄で、寺社ともうまく折り合いをつけて大和を治めた。
▼ 史実ではこうです
秀長が調整役として知られるのは確かですが、大和で寺社に対してとった手段は厳しいものでした。武装解除、領地の申告と大幅な削減、従わない在地の武士の追放と、寺社の既得権をはっきり削っています。一方で、寺社が農民に無理な労役を課すことを禁じる掟も出しており、寺社の力を削ぐことと、農民を守ることを同時に進めたと見ることができます。

奈良の商人を郡山へ|城下町を一気に育てる

天正十三年の十月には、奈良の町での商売を禁じ、郡山で商いをするよう命じました。興福寺の門前町として栄えてきた奈良から、商人と職人を城下の郡山へ移し、寺社ではなく城を中心にした経済をつくろうとしたのです。郡山の町には、町ごとに特定の商売を許す「箱本」の仕組みが整えられ、城下町は短いあいだに大きく育ちました。箱本の仕組みは秀長百万石の記事で、甥の秀次が近江八幡で同じように商人を集めた話は八幡山城で書いています。

寺の石で城を築く|郡山城の石垣

大和には城に使える石が少なく、秀長は郡山城の石垣を積むために、春日社の近くの川から大石を切り出し、さらに寺の礎石や五輪塔、石地蔵までを集めて積みこみました。石垣には、いまも逆さに積まれた地蔵が残っています。寺社の国の石が、武家の城の土台に変わったのです。紀伊の根来寺の大門を運んで城門にしたとも伝わります。郡山城の城づくりは大和郡山城で詳しく書いています。

多武峰の神を郡山へ|そして「たたり」の噂

秀長の寺社政策でいちばん大胆だったのが、多武峰の移転です。天正十五年の十一月、郡山城の西の丘に新しい社殿を造らせ、翌年三月には朝廷の命令である綸旨まで出させて、多武峰の神をそこへ移させました。六千石の寺領を与えることが条件でした。武装して抵抗してきた山の寺を、城のすぐそばに置いて監視しようとしたと考えられます。ところがその後、秀長は病に倒れます。これは多武峰の神を無理に移したたたりだという噂が立ち、神は元の山へ戻されたと伝わります。秀長は天正十九年(1591年)正月、郡山城で亡くなりました。秀長の死のあと豊臣家に起きたことは天正十九年に何が起きたのかで書いています。

▽ よく語られる話
多武峰の神を動かしたたたりで、秀長は命を落とした。
▼ 史実ではこうです
秀長が病に倒れたことと、多武峰を移したことを結びつけたのは当時の人びとの噂で、病との因果関係を示す証拠はありません。ただ、寺社の力を削いだ秀長の政策が、神仏を恐れる人びとにどう受け止められていたかを、この噂はよく物語っています。

まとめ|寺社の国を、武家の国へ

秀長が大和で行ったのは、武器を取り上げ、土地を調べ、領地を削り、商人を城下に集めるという、寺社の力の源を一つずつ断つ作業でした。わずか六年ほどのあいだに、数百年続いた寺社の国は、郡山城を中心とする武家の国へと姿を変えます。そのやり方は、秀吉が全国で進めた検地と刀狩の先駆けでもありました。秀長その人については豊臣秀長とは、大和で秀長を支えた家臣たちは豊臣秀長の家臣団とはをご覧ください。

▶ あわせて読みたい

豊臣兄弟!第37回「秀長の国」史実解説
秀長が入った郡山城と、寺社の国・大和。放送前に知っておきたい史実。

  • URLをコピーしました!
目次