- 長宗我部元親は、幼い頃「姫若子(ひめわこ)」と呼ばれていた。色白でおとなしく、父が跡継ぎとして悩んだほどだった
- 初陣は永禄三年(1560)五月の長浜の戦い。二十歳をいくつも過ぎてからの、当時としては非常に遅い初陣である
- その初陣で、彼は槍の持ち方すら知らなかった。家臣にその場で教わって突撃している
- 一日で評価が反転し、「鬼若子(おにわこ)」と呼ばれるようになった
- 土佐統一は天正三年、四国のほぼ全域を押さえたのが天正十三年。その同じ年に、秀吉の四国攻めを受ける
「姫若子」と「鬼若子」。この二つの呼び名は、同じ一人の男に、同じ土佐の人々がつけたものである。
しかも、その間はわずか一日しかない。長宗我部元親という武将のはじまりは、たった一度の戦で評価がひっくり返った日にある。ここでは四国統一の経過ではなく、その反転が何によって起きたのかを追ってみたい。

岡豊城跡。元親が生まれ、四国統一の拠点とした城である
「姫若子」と呼ばれていた頃
元親は天文八年(1539)、土佐の岡豊城(おこうじょう)に生まれた。父は長宗我部国親。土佐の一領主にすぎない家である。
この嫡男が、周囲を心配させた。
伝わるところでは、背は高いが色白で、おとなしく、人に会っても挨拶も返事もせず、ぼんやりしていた。そこから「姫若子」とあだ名がついた。姫のような若君、という意味である。もちろん褒め言葉ではない。
父・国親は、この子を後継ぎにしてよいものかと悩んだと伝わる。戦国の土佐は、周囲を本山氏、安芸氏、一条氏に囲まれた土地である。当主が弱ければ家は消える。
永禄三年五月、長浜 ── 槍の持ち方を知らないまま
初陣は、永禄三年(1560)五月の長浜の戦いである。相手は土佐中央の本山氏。
ここでまず驚くのが年齢だ。元親はこのとき数えで二十二歳(二十三歳とする資料もある)。当時としては、とんでもなく遅い初陣である。十代前半で初陣を済ませる武将が珍しくない時代に、二十歳をいくつも過ぎていた。
それだけ、周囲が彼を戦に出せずにいたということでもある。
そして戦場での逸話が残っている。元親は、槍の使い方を知らなかった。
見かねた家臣が、その場で教えたと伝わる。槍は敵の目を突け。それだけの助言だったという。
戦の直前に武器の使い方を習う総大将。これが「姫若子」と呼ばれていた男の、実際の姿である。
「鬼若子」への一日
ところが、である。
元親は五十人ほどの手勢を率いて敵陣へ突っ込んだ。自分で槍を持ち、先頭で突撃したと伝わる。教わったばかりの槍で、敵兵二人を突き倒している。
そしてこの部隊は、七十もの首級を挙げた。本山軍の半分の兵力で、である。
この日を境に、呼び名が変わった。「姫若子」から「鬼若子」へ。
ここで考えたいのは、なぜ一日で反転したのかということである。
臆病だった人間が急に勇敢になったのだと読むのは、たぶん違う。おとなしいことと、戦えないことは同じではない。周囲が「姫若子」と呼んでいたのは、彼が戦場でどうふるまうかを誰も見たことがなかったからにすぎない。
見たことがないものは、評価のしようがない。だから見た目で決められていた。一日で変わったのは元親ではなく、周囲の見方のほうである。
一領具足 ── 田の畦に具足を置いた兵
元親の強さを語るとき、必ず出てくるのが一領具足(いちりょうぐそく)である。
これは半農半兵の仕組みだ。ふだんは田畑を耕している。ただし畦に具足と槍を置いたまま農作業をする。法螺貝が鳴れば、その場から出陣する。
一領とは、一揃いの具足のこと。それしか持っていない兵、という意味でもある。
彼らは「死生知らずの野武士」と評された。動員が速く、そして異様に強い。土佐一国から四国全域へ広がっていく速度は、この仕組みなしには説明できない。
ただし裏返しもある。農地と結びついた兵は、遠くへは行けない。収穫の季節には帰らねばならず、長期の遠征に向かない。四国の外へ出ることを、この仕組み自体が難しくしていた。
土佐統一、そして四国へ
長浜のあと、元親は速い。
本山氏を圧迫し、安芸氏を降し、土佐一条氏を追う。土佐統一が完成したのは天正三年(1575)の四万十川の戦いである。初陣から十五年。
そこからさらに阿波・讃岐・伊予へ手を伸ばし、天正十三年(1585)ごろには四国のほぼ全域を押さえたとされる。ただしこの「四国統一」の範囲については、研究者によって見解が分かれている点は添えておきたい。
そして秀長が来る ── 天正十三年の四国攻め
四国をほぼ手中にした、まさにその年である。
天正十三年(1585)、豊臣秀吉が四国へ大軍を送った。総大将は、秀吉の弟・豊臣秀長。阿波・讃岐・伊予の三方から同時に攻め上がる形だった。
阿波の一宮城では、秀長軍と長宗我部軍が正面からぶつかっている。

阿波の一宮城跡。秀長軍と長宗我部軍が正面からぶつかった
そして七月二十五日、元親は降伏した。安堵されたのは土佐一国のみである。二十五年かけて広げた版図が、出発点に戻された。
その後 ── 戸次川で嫡男を失う
降伏の翌年、元親はさらに重いものを失う。
天正十四年(1586)十二月、九州征伐の緒戦にあたる戸次川(へつぎがわ)の戦い。長宗我部軍は島津の策にはまって敗走し、嫡男の信親が討死した。
元親は自害しようとしたが、家臣に諌められたと伝わる。
この日を境に、元親の人物像は変わっていく。後継者をめぐる家中の対立を強引に抑え込み、周囲との軋轢を深めていった。「鬼若子」と呼ばれた男の晩年は、孤独である。
慶長四年(1599)五月十九日、伏見で没した。享年六十一。関ヶ原の前年である。
よくある疑問
Q. 「姫若子」「鬼若子」はどう読むのですか?
A. ひめわこ、おにわこ、と読みます。「若子」は若君の意味です。
Q. 初陣が二十二歳というのは、本当に遅いのですか?
A. 遅いです。戦国期の武家では十代前半での初陣が一般的で、十五歳前後を目安とすることが多くありました。二十歳を超えての初陣は例外的です。
Q. 一領具足は元親が作った制度ですか?
A. 父・国親の代から続く土佐の在地の仕組みが基礎にあり、元親がそれを活用して版図を広げたと理解されています。
Q. 元親は四国を統一したと言い切ってよいのですか?
A. 「四国統一」と表現されることは多いのですが、伊予や讃岐の一部には最後まで従わない勢力があったとされ、統一の範囲については見解が分かれます。
イラストで見る武将・姫たち
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まとめ
長宗我部元親の面白さは、評価が一日で反転した男だという点にある。
二十二歳まで「姫若子」と呼ばれ、父にまで心配され、槍の持ち方さえ知らなかった。それが一度の戦で「鬼若子」になり、そこから二十五年かけて四国を押さえた。
そして押さえたその年に、秀長が来た。土佐一国から始まり、四国全域まで広げ、そしてまた土佐一国に戻された。
「姫若子」と呼ばれていた時間の長さを思うと、この人の生涯は、見た目で決めつけられることの理不尽さと、それを一日でひっくり返した記録のようにも読める。
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