- 森長可は森蘭丸の兄。本能寺で弟三人を一度に失っている
- 父も兄も戦死。森家は男が次々に死んでいく家だった
- 「鬼武蔵」と呼ばれた猛将だが、その猛さは家を継ぐ順番が回ってきた結果でもある
- 長久手で討死。享年二十七。遺言で、弟に家督を継がせないよう頼んでいる
小牧・長久手で、秀吉は二人の名将を一度に失った。ひとりが池田恒興。そしてもうひとりが森長可(もり ながよし)である。この人を紹介するとき、いちばん通りがいい言い方がある。森蘭丸の兄だ。

兼山城(美濃金山城)跡。森家の居城で、長可も蘭丸もここで育った
森家という、男が死んでいく家
長可を理解するには、まず家の事情から入るのがいい。父は森可成(よしなり)。信長の古参の家臣で、兼山城(美濃金山城)を居城とした。その可成が、元亀元年(1570)、宇佐山城の戦いで討死する。浅井・朝倉の大軍を相手に、兵を退かずに戦って死んだ。
このとき長男もすでに戦死しており、家督は次男の長可に回ってきた。長可はまだ十代である。父が死に、兄も死に、家が自分の肩に載る。森家の男に生まれるとは、そういうことだった。
本能寺で、弟を三人まとめて失う
そして天正十年(1582)六月、本能寺の変が起きる。このとき信長のそばにいたのが、長可の弟たちだった。
- 森蘭丸(乱)……信長の小姓として最も知られる
- 森坊丸
- 森力丸
三人とも、この日に死んだ。父を失い、兄を失い、そして弟を三人、一日で失った。森家の男で残ったのは、長可と、まだ幼い末弟の忠政だけになる。
本能寺のあと、長可は信濃にいた。信長の死で領国は一気に崩れ、長可は敵地を突っ切って美濃へ帰還している。この撤退行そのものが語り草になっているが、その帰り道で彼が知ったのは、弟三人の死だった。
森蘭丸だけが有名なのは、なぜか
ここで、兄弟の知名度の差に触れておきたい。森蘭丸の名前を知らない人は、まずいない。だが兄の長可を知る人は、ぐっと少なくなる。戦働きで言えば、長可のほうが圧倒的に実績がある。城主として一国を任され、各地を転戦し、最後は名将として討死した。蘭丸は小姓であって、大きな合戦の指揮官ではない。
それでも蘭丸のほうが有名なのは、本能寺という舞台のせいだと思う。信長の最期に、そばで戦って死んだ。これ以上わかりやすい役どころはない。物語に組み込みやすく、絵になる。一方の長可は、小牧・長久手という「引き分けに終わった戦」の中で死んだ。語られる機会が少ない。
歴史に名が残るかどうかは、実績より、どの舞台で死んだかで決まることがある。森兄弟は、その見本のような二人である。
信濃からの撤退という難事
もうひとつ、長可の実力がよく出ている場面がある。本能寺の変のとき、長可は信長から与えられた信濃にいた。信長が死んだ瞬間、この地は敵地になる。織田家に平定されたばかりの土地で、旧領主の勢力も一揆の火種も残っていた。取り残された織田方の武将は、各地で討たれている。
その中を、長可は美濃まで突っ切って帰り着いた。敵に囲まれた土地から、部隊を保ったまま脱出する。これは攻めるより、はるかに難しい。猛将という言葉だけでは、この芸当は説明できない。戦場の判断力が確実にあった人である。だからこそ、長久手での最期が惜しまれる。
なぜ長可は、中入りに加わったのか
そして天正十二年(1584)、小牧・長久手。長可は池田恒興の娘婿である。恒興が中入りを献策した以上、長可がそこに加わるのは自然な流れだった。ただ、それだけではないと思う。長可はこの戦いの序盤で、一度負けている。羽黒での戦いで徳川方に敗れ、面目を失っていた。
汚名をすすぐ機会が要る。強さを示し続けないと保たない立場の人間にとって、これは小さな動機ではない。佐久間盛政が賤ヶ岳で退かなかったときと、同じ空気がここにもある。猛将と呼ばれる人間は、引き返しにくい。

岩崎城。中入り部隊はこの城で時間を使い、長久手で捕捉された
享年二十七、そして遺言
長久手で、長可は討死した。享年二十七。父も、兄も、弟三人も戦で死に、そして本人も戦で死んだ。この人の最期でいちばん語るべきは、戦の前に残したとされる遺言である。そこには、末弟の忠政に家督を継がせないでほしいという趣旨のことが書かれていたと伝わる。
理由を考えると、重い。森家の男は、家督を継ぐたびに死んでいる。父が死に、兄が死に、自分も死のうとしている。最後に残った弟だけは、この家から出してやりたかった——そう読める。実際には忠政が家督を継ぎ、森家は存続した。兄の願いは叶わなかったが、家は残った。そのおかげで、いま長可の名前も伝わっている。
大河ドラマで描かれない話
長可の死には、秀吉にとっての意味もある。池田恒興と森長可を同時に失ったことで、秀吉は家康を力で倒す道をあきらめた。このあと秀吉が選んだのは、妹の旭姫を嫁がせ、母の大政所を人質に送るという道である。
戦って勝てないなら、勝たなくていい形に持っていく。その方針転換のきっかけを作ったのが、この二人の死だった。言い方を変えれば、長可たちの討死が、徳川家康を生き延びさせたとも言える。もし中入りが成功していれば、家康の天下はなかったかもしれない。
よくある質問
Q. 森長可と森蘭丸はどういう関係ですか?
A. 兄弟です。長可が兄で、蘭丸が弟にあたります。ほかに坊丸・力丸という弟もおり、三人とも本能寺の変で亡くなりました。
Q. なぜ「鬼武蔵」と呼ばれたのですか?
A. 通称の武蔵守に、戦場での激しさが結びついた異名です。「鬼」がつく武将は当時ほかにもおり、佐久間盛政は「鬼玄蕃」と呼ばれました。
Q. 森長可は何歳で亡くなったのですか?
A. 天正十二年(1584)の長久手の戦いで討死し、享年二十七とされます。
Q. 森家はその後どうなりましたか?
A. 末弟の忠政が家督を継ぎ、大名として存続しました。長可は遺言で忠政に継がせないよう望んだと伝わりますが、実際には継いでいます。
ゆかりの地をめぐる
- 兼山城(美濃金山城)(岐阜県可児市)… 森家の居城。長可も蘭丸もここで育った
- 宇佐山城(滋賀県大津市)… 父・森可成が討死した城
- 岩崎城(愛知県日進市)… 中入り部隊が足を止めた城
- 小牧山城(愛知県小牧市)… 家康の本陣
- 苗木城(岐阜県中津川市)… 長可が攻めた美濃の山城
イラストで見る武将や姫たち
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まとめ
森長可は、粗暴だから猛将になったのではないと思う。父が死に、兄が死に、十代で家を背負わされ、弟三人まで一日で失った。強さを示し続けなければ、家臣団が離れていく立場だった。そして最後は、その強さを示しにいって死んだ。二十七歳である。
遺言で弟に家督を継がせるなと書いた人が、いちばん正直だったのだろうと思う。この家に生まれると、死ぬ。本人がそれをいちばんよく知っていた。

