西光寺(福井市):柴田勝家とお市の墓には、遺骨がない

この記事のポイント

  • 柴田勝家とお市の方の墓は、福井市左内町の西光寺にある
  • ただしこの墓に遺骨はない。北ノ庄城の炎とともに失われたからである
  • それでも墓が建った。勝家が戦の前に、住職へ供養を頼んでいたと伝わる
  • 建てたのは味方ではなく、秀吉方の武将だったという
大河ドラマ「豊臣兄弟!」第33回「北庄城の別れ」は8月30日(日)放送。二人が最期を迎える回です。その後を訪ねられる場所が、福井市に残っています。

放送を見たあと、「二人の墓はどこにあるのか」と調べる人は多いと思う。答えは福井市の西光寺(さいこうじ)である。JR福井駅から歩いて二十分ほど、街なかの寺だ。ただ、訪ねる前に知っておいてほしいことがひとつある。この墓には、遺骨が納められていない。

西光寺の柴田勝家公・お市の方の墓の案内板

墓所の入口に立つ福井市の案内板。「柴田勝家公・お市の方の墓」とある

目次

遺骨のない墓

天正十一年(1583)四月二十四日、北ノ庄城は燃えた。勝家とお市は城とともに果てている。城が焼け落ちた以上、遺骨を拾い集めることはできなかった。だから西光寺にあるのは、遺体を納めた墓ではなく供養のための塔である。

墓の形も独特で、「越前式石廟」と呼ばれる石の祠になっている。その中に五輪塔が五基納められていると伝わる。石の箱が石塔を守っている、という構えである。

▽ よく語られる話
柴田勝家とお市の方は、西光寺に眠っている。
▼ 史実ではこうです
遺骨は納められていません。北ノ庄城の炎上で回収できなかったためです。
つまりこの墓は、遺体を埋めた場所ではなく、供養するために後から建てられたものということになります。

勝家は、負けたあとのことを頼んでいた

ここからが、この寺のいちばん重い話である。勝家は賤ヶ岳へ向かう前に、西光寺の住職に自分の死後の供養を頼んでいたと伝わる。意味を考えてみたい。供養を頼むということは、負けて死ぬ可能性を、本人がはっきり勘定に入れていたということである。

戦の前に験の悪いことを口にするのは、普通なら避ける。それでも頼んだ。玄蕃尾城に本陣を置いて秀吉と対峙したとき、勝家の中では勝つ算段と、負けたときの後始末が、同時に進んでいたことになる。

この寺が勝家の菩提寺だったことにも理由がある。天正三年(1575)、越前の国主として北ノ庄に入った勝家は、岡の庄にあったこの寺に帰依し、自らの菩提所と定めて当地へ移した——と、墓のかたわらに立つ石碑に刻まれている。自分で移した寺に、自分の供養を頼んだことになる。

▶ この続きを読む

柴田勝家とお市の辞世の句:夏の夜のほととぎすに、二人は何を託したのか

供養を頼んでいた男が、最期に鳥へ託したのは「名を残してくれ」でした。

墓を建てたのは、敵方の武将だった

では、この墓を建てたのは誰か。これは推測ではない。墓の隣に立つ石碑に、はっきり刻まれている。「この墓は豊臣家の祐筆 山中山城守(長俊)の手によって建立されたと伝えられる」——と。この人は秀吉に仕えていた。つまり勝家を滅ぼした側である。

理由はかつて勝家から受けた恩に報いるためだったと伝わる。仕える相手は変わっても、受けた恩は別勘定だった、ということだろう。敵方に回った人間が、旧主の供養塔を建てる。戦国という時代の、義理の通し方がここに出ている。前田利家が戦場を去り、佐久間盛政が助命を断ったのと同じ戦いの、また別の後日談である。

西光寺にある柴田勝家とお市の方の墓

石廟と石灯籠。右手の碑に「この墓は豊臣家の祐筆 山中山城守の手によって建立されたと伝えられる」と刻まれている

三姉妹をかくまったという寺伝

もうひとつ、この寺には興味深い言い伝えがある。北ノ庄城が落ちたとき、浅井三姉妹がこの寺にかくまわれたという話が、寺に伝わっているという。史料で裏づけられる話ではない。ただ、これが面白いのは「三人が城の外へ出た」という事実と矛盾しないことである。

茶々・初・江は落城前に城を出ている。出たあと、どこかで身を置いた場所があったはずだ。菩提寺は、その候補として不自然ではない。そしてこの寺伝が本当なら、勝家とお市の最期の様子を外へ伝えられる人間が、確かにいたことになる。辞世の句がどうやって伝わったのか、という問いにもつながってくる。

境内に残るもの

西光寺には、ほかにも見ておきたいものがある。

西光寺の柴田勝家公愛用の梅

「柴田勝家公愛用の梅」。立札によれば昭和二十年の福井空襲で被災しながら、いまも生きている

  • 柴田勝家公資料館……勝家の遺品などを展示。一階に勝家とお市の像がある。かつての木像は福井空襲で焼失したという
  • 樹齢およそ四百年の梅……勝家が愛したと伝わる木。空襲のあとも花を咲かせたと伝えられる
  • 北ノ庄城の礎石……境内に置かれている大きな石。立札に「明治七年 北の方城ノ内濠跡を整地した際発堀されたものである」とある

西光寺境内にある北ノ庄城の礎石

境内の北ノ庄城礎石。燃えた城の、確かな残りものである

寺そのものは光明山西光寺、天台真盛宗。延徳元年(1489)の開山と伝わるので、勝家より百年ちかく古い。一乗谷の朝倉氏の時代からこの地にあった寺が、朝倉滅亡で焼け、勝家の手で建て直された——という流れになる。

いまも、命日に法要がある

墓所の案内板に、さらりとこう書かれている。毎年四月二十四日、二人の命日に祭が催されている——と。天正十一年四月二十四日から、四百四十年あまり。遺骨のない墓に、いまも毎年、人が集まっている。

供養を頼んだ本人はとうにいない。頼まれた住職も、墓を建てた山中長俊も、とうにいない。それでも約束のほうだけが、代替わりしながら続いている。

訪ねるときに

柴田勝家公資料館の拝観には事前連絡が必要である。ふらりと立ち寄って必ず見られる、という場所ではない。

  • 拝観時間……12:00〜16:00(要事前連絡
  • 拝観料……300円(中学生以下は無料)
  • 駐車場……なし

市街地の寺なので、車で行く場合は周辺の駐車場を使うことになる。福井駅から歩ける距離なので、柴田神社(北ノ庄城址)とあわせて歩いて回るのが現実的だと思う。※拝観条件は変わることがあります。訪問前に最新情報をご確認ください。

よくある質問

Q. 柴田勝家とお市の墓はどこにありますか?
A. 福井県福井市左内町の西光寺です。JR福井駅から徒歩約17分、北陸自動車道福井ICから車で約12分です。

Q. 墓に遺骨はありますか?
A. ありません。北ノ庄城の落城・炎上により遺骨は回収できませんでした。供養のための塔です。

Q. 誰でも参拝できますか?
A. 柴田勝家公資料館の拝観は12:00〜16:00で、事前連絡が必要です。拝観料は300円(中学生以下無料)。駐車場はありません。

Q. 北ノ庄城址とは別の場所ですか?
A. 別の場所です。北ノ庄城址(柴田神社)は福井県庁の近く、西光寺は左内町にあります。どちらも福井駅から歩ける範囲です。

アクセス

〒918-8002 福井県福井市左内町8-21
天台真盛宗 光明山 西光寺 電話 0776-36-1528
JR福井駅から徒歩約17分/北陸自動車道「福井IC」から車で約12分。駐車場はありません。
Googleマップで見る

ゆかりの地をめぐる

  • 北ノ庄城(福井県福井市)… 二人が最期を迎えた城
  • 柴田神社(福井県福井市)… 城址に建つ社。三姉妹の像がある
  • 福井城址(福井県福井市)… 北ノ庄城のあとに築かれた結城秀康の城
  • 玄蕃尾城(福井県敦賀市)… 勝家が賤ヶ岳で本陣を置いた陣城
  • 一乗谷城(福井県福井市)… 朝倉氏の本拠。この寺が焼けた戦の舞台

イラストで見る武将や姫たち

■ 第33回「北庄城の別れ」をもっと深く読む

まとめ

遺骨のない墓である。それでも四百年、供養され続けてきた。頼んだのは勝家本人で、建てたのは敵方の武将で、守ってきたのは寺だった。負けた人間の墓が残るには、これだけの人手が要る。放送で北ノ庄城が燃えるのを見たあと、その火の始末を誰かが四百年つけ続けているということを、思い出してもらえたらと思う。

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!
目次