■ 日本の歴史ブログ
近藤勇 盟友土方歳三との最後の別れ方とは?
「鳥羽伏見の戦い」で薩摩藩・長州藩が主体の新政府軍に敗れた旧幕府軍や新選組は、惨憺たる思いでどうにか江戸へ帰還することができました。
近藤勇率いる新選組はその名を「甲陽鎮撫隊」と改め、甲府城を奪取し新政府軍の江戸侵入を阻む計画を立てるが「勝沼の戦い」で板垣退助率いる新政府軍にあっさりと敗れてしまい再び江戸へ敗走します。
その後、江戸城の無血開城が西郷隆盛と勝海舟との間で決定され、江戸城は新政府軍の手に渡ってしまいます。これを不服と考える旧幕府軍の旗本を中心とした面々が彰義隊を結成し、上野山に立て篭もり新政府軍に抵抗を見せるも「大村益次郎(長州藩)」の指揮する攻撃のもと、上野は一日で陥落してしまいます。
その間、近藤や新選組副長の土方歳三らは江戸川を渡り千葉方面(流山)へ移動し、改めて再起を図ろうと計画します。市川の「国府台」などにも新政府軍に抵抗しようと江戸から脱走してきた面々が続々と集まってきていました。

一方、新政府軍では流山に集結しつつある一団の情報を掴んでおり、その真相を掴むため一隊を差し向けることにしました。不意を突かれた近藤・土方らは急遽撤収することにするが、近藤勇だけは流山が兵火に巻き込まれることを快く思わず新政府軍に出頭する道を選びます。

土方や他の面々は必死に止めたが近藤の意思は固かったといいます。出頭した近藤は新選組の局長という名を伏せ、幕臣「大久保大和」と名乗っていたが折悪く近藤勇の顔を見知るものが新政府軍の中におり、その正体が露見してしまいます。
当時、坂本龍馬を暗殺したのは「新選組」と考えていた土佐藩の面々は特に近藤を酷く憎んでおり、大した事情調査も行われないまま板橋の刑場へ連行され斬首されてしまいます。
奇しくも、この流山の地が近藤勇と土方歳三の今生の別れの地となってしまいました。4月の第二日曜日には「流山新選組まつり・勇忌」が行われています。

一方、土方歳三は、他の旧幕府軍と合流し宇都宮の戦い、会津若松の戦い、そして最後は蝦夷(北海道)の五稜郭にまでわたり、函館戦争にて戦死することになります。
最後まで「新政府軍」に、新しい時代を高く売りつけようとするかのような生き方でした。
【勝沼の戦いで何があったのか】
慶応4年(1868年)3月、近藤勇は「大久保剛」と名を変え、甲陽鎮撫隊を率いて甲府城をめざしましたが、道中で隊士が次々と脱落していったこともあり、板垣退助率いる新政府軍に先に甲府城へ入られてしまいます。近藤らは勝沼に陣を構えて迎え撃ちましたが、兵の数でも装備でも劣っていたため短い時間で敗れ、江戸へ引き返すことになりました。甲府城については「甲府城:武田信玄・勝頼滅亡後新たに築城された関東の要地」で詳しく紹介しています。
【流山の本陣はどこにあったのか】
近藤らが流山で本陣を置いたのは、酒やみりんの醸造を営んでいた長岡屋という商家でした。流山はみりんの産地として知られる町で、江戸川の水運で江戸とつながっていたことから、再起をはかる拠点として選ばれたと考えられています。近藤たちが流山に入ったのは4月の初めで、4月3日には新政府軍に周囲を固められ、近藤はそのまま出頭することになりましたから、わずか数日の滞在が新選組の運命を大きく変えたことになります。現在は流鉄流山線の流山駅から歩いて5分ほどの場所に「近藤勇陣屋跡」の碑が建っています。
【近藤勇の最期と墓所】
近藤の正体を見破ったのは、かつて新選組にいて御陵衛士として袂を分かった加納鷲雄らだったといわれています。近藤は慶応4年4月25日に板橋の刑場で斬首され、35歳の生涯を閉じました。首は京都へ送られて三条河原にさらされ、胴体は板橋に葬られたと伝わります。現在はJR板橋駅の近くに近藤勇と土方歳三の供養塔があり、近藤家の菩提寺である東京都三鷹市の龍源寺にも墓所があります。
【土方歳三は近藤を救おうとした】
近藤と別れた土方は、江戸に戻って勝海舟らに近藤の助命を働きかけたと伝えられていますが、願いはかないませんでした。その後の土方は近藤の分まで戦い抜くかのように北へ転戦を続け、明治2年(1869年)、箱館の地で命を落としています。
【近藤勇流山本陣跡・場所・アクセス】
千葉県流山市流山2丁目130-1
【新選組局長 近藤勇流山本陣跡地図】

