- 元治元年(1864)6月5日、新選組が三条小橋の旅館「池田屋」で尊王攘夷派の志士を襲撃した幕末最大級の斬り合い。
- 発端は、新選組が捕らえた古高俊太郎への拷問で判明した“京都焼き討ち計画”だった。
- 近藤勇・沖田総司・永倉新八らが斬り込み、宮部鼎蔵・吉田稔麿ら多くの志士が斃れた。新選組の名は一躍天下に轟いた。
- 跡地は現在、居酒屋「池田屋 はなの舞」。店内には顔はめ看板や蝋人形もあり、当時を偲べる。
京都・三条小橋のたもと、にぎやかな繁華街の一角に「池田屋騒動之址」と刻まれた石標が立っています。今そこにあるのは、なんと居酒屋。かつて幕末京都を震撼させた大事件の舞台は、いまや「旅籠茶屋 池田屋 はなの舞」という料理屋になっているのです。とはいえ店内には池田屋事件をしのぶ展示が随所にあり、歴史好きにはたまらない“聖地”になっています。この記事では、新選組の名を天下に知らしめた池田屋事件を、襲った側・襲われた側の両面からじっくり見ていきます。

事件の発端──古高俊太郎の捕縛
元治元年(1864)、京都の治安維持を担っていたのが会津藩お預かりの新選組でした。局長は近藤勇、副長は土方歳三。剣の達人ぞろいの彼らは、市中に潜む尊王攘夷派の志士たちを厳しく取り締まっていました。
その探索の中で、新選組は四条小橋の炭薪商「枡屋」の主人・古高俊太郎(ふるたか しゅんたろう)を捕縛します。彼の正体は、志士たちに武器や資金を融通する重要人物でした。土方による厳しい拷問の末、古高は恐るべき計画を自白したと伝えられます。それは、祇園祭の宵山の風に乗じて御所周辺に火を放ち、混乱に乗じて要人を暗殺、孝明天皇を長州へ動座させるという過激な謀略でした(自白の内容には諸説あります)。
襲う側──新選組という集団
この情報を受け、新選組は志士たちの会合場所を突き止めるべく動きます。捜索は二手に分かれ、近藤勇の隊(近藤・沖田総司・永倉新八・藤堂平助ら約10名)と、土方歳三の隊とに分かれて祇園・三条界隈をしらみつぶしに当たりました。
新選組の強さの核にいたのが、天然理心流の近藤、そして“天才剣士”とうたわれた沖田総司です。若くして病(肺の病)を抱えながらも、その剣は凄まじく速かったと伝わります。店内の顔はめ看板にも、沖田・近藤・土方の三人が並んでいます。

襲われる側──志士たちの顔ぶれ
一方、池田屋の二階に集まっていたのは、長州・土佐・肥後などの尊王攘夷派の志士たち。中心にいたのは、肥後藩の兵学者宮部鼎蔵(みやべ ていぞう)、長州の俊英吉田稔麿(よしだ としまろ/松下村塾の四天王の一人)、土佐の北添佶摩らでした。彼らは京都の情勢と今後の計画を密議していたと考えられています。血気盛んで理想に燃える、いずれも各藩を代表する人材たちでした。
元治元年6月5日、その夜の激闘
祇園祭の宵山でにぎわう蒸し暑い夜。近藤隊がついに池田屋を突き止めます。「御用改めである!」──近藤らわずか数名が、二十数名の志士がひしめく二階へ斬り込みました。狭い旅館の中での大乱闘。刀がぶつかり、障子が倒れ、血しぶきが飛びました。
この戦いで宮部鼎蔵は自刃、吉田稔麿・北添佶摩らも斃れ、多数が討ち死に・捕縛されました。新選組側も藤堂平助が額を割られ、永倉新八は左手の親指を負傷。沖田総司はこの最中に病で喀血して戦線を離脱した、とも語られます(諸説あり)。遅れて土方隊、さらに会津・桑名の藩兵が駆けつけた頃には、大勢は決していました。わずかな人数で多数を制したこの一戦で、新選組の武名は一夜にして全国に轟いたのです。

その後の展開──維新への引き金
池田屋事件は、単なる斬り合いでは終わりませんでした。多くの同志を殺された長州藩は激怒し、翌月には京都へ攻め上って禁門の変(蛤御門の変)を引き起こします。これに敗れた長州はさらに追い詰められ、下関戦争を経て、やがて薩摩と手を結び(薩長同盟)、倒幕へと突き進んでいきました。
「池田屋事件が維新を1年遅らせた」とも「かえって倒幕を早めた」とも言われます。いずれにせよ、この一夜が幕末の歯車を大きく回したことは間違いありません。討たれた志士たちの無念が、時代を動かす原動力になっていったのです。
志士たちはどこに眠っているのか
池田屋で斃れた尊王攘夷派の志士たちの多くは、東山の京都霊山護国神社に葬られています。坂本龍馬・中岡慎太郎と同じ丘です。また跡地の「はなの舞」では、毎年7月に殉難者の供養が行われ、店先の解説によれば、新選組・尊攘派の区別なく“国を憂えた人々”として弔うのだといいます。敵味方に分かれて斬り結んだ者たちが、150年を経て同じ祈りの中にある──幕末という時代の奥深さを感じさせます。
Q. 池田屋跡は本当に居酒屋なの?
A. はい。現在は「旅籠茶屋 池田屋 はなの舞」という居酒屋になっています。店内には池田屋の見取り図や蝋人形、階段の再現などがあり、食事をしながら歴史に浸れます。
Q. 沖田総司は本当に喀血して倒れた?
A. 有名なエピソードですが、史料的な裏づけは弱く、後世の創作・脚色の可能性も指摘されています。諸説ある逸話として楽しむのがよいでしょう。
Q. 事件はいつ?供養の日は?
A. 元治元年6月5日(新暦1864年7月8日)の出来事です。跡地では旧暦にちなみ、7月15日前後に殉難者の供養が営まれています。
ゆかりの地をめぐる
池田屋跡のすぐ近く、木屋町・高瀬川沿いには佐久間象山・大村益次郎の遭難之碑が、少し北には坂本龍馬・中岡慎太郎の近江屋跡があります。徒歩で回れる範囲に幕末の“事件現場”が凝縮しており、あわせて歩けば維新前夜の京都が立体的に見えてきます。大政奉還の二条城も近くです。
まとめ
池田屋事件は、理想に燃えた志士たちと、それを取り締まる新選組とが正面からぶつかった、幕末を象徴する一夜でした。斬った側も斬られた側も、それぞれの信じる「国のあるべき姿」に命を懸けていました。にぎやかな居酒屋となった今の池田屋で杯をあげるとき、ふと足元に眠る激動の記憶に思いを馳せてみてはいかがでしょうか。
※事件の経緯や逸話(古高の自白内容、沖田の喀血など)には史料・研究により諸説あります。本記事は現地の解説および一般的な通説に基づいて構成しています。

