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浅井三姉妹のその後:茶々・初・江はなぜ敵味方に分かれたのか
この記事のポイント 茶々・初・江は二度の落城を生き延びた姉妹。小谷城と北ノ庄城 三人は豊臣・京極・徳川という、まったく違う家へ嫁いだ 大坂の陣では姉と妹が敵味方に分かれ、次女の初が両者の間を取り持った 豊臣の血も徳川の血も、この三姉妹から続... -
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秀吉はなぜお市の方を助けなかったのか:娘は城を出た。なぜ母だけが残ったのか
この記事のポイント 秀吉はお市の方に強い関心を持っていたと伝わる。それでも北ノ庄では救えていない お市は娘三人を城から出し、自分だけが残った。「出られなかった」のではない 十年前の小谷城では、お市自身も城を出ている。一度目は出て、二度目は残... -
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豊臣兄弟!第27〜29回 史実解説|中国大返しはなぜ可能だったのか、天王山は本当に決め手だったのか
この記事のポイント 天正十年(1582)六月二日、本能寺の変。秀吉は備中高松城を水攻めしている最中だった 中国大返し――約二百キロを十日足らずで戻ったとされる、戦国最大級の強行軍 六月十三日、山崎の戦い。本能寺からわずか十一日で光秀は敗れる この... -
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豊臣兄弟!第22〜26回 史実解説|三木の干殺しと、二人の軍師が入れ替わった年
この記事のポイント 播磨攻めは三年以上かかった。秀吉の生涯でもっとも苦しい戦線 三木の干殺し――兵糧攻めで三木城を落とすまで約二年 黒田官兵衛が有岡城に幽閉される。信長は裏切りを疑い、人質の松寿丸に死を命じた 竹中半兵衛が松寿丸をかくまい、そ... -
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豊臣兄弟!第18〜21回 史実解説|「羽柴」という姓はどう作られたのか、秀長はいつ将になったのか
この記事のポイント 天正元年(1573)、木下から羽柴へ改姓。丹羽長秀と柴田勝家から一字ずつ取ったと伝わる 秀吉が長浜城主となり、秀長が留守を預かる体制ができる 天正五年(1577)、松永久秀が信貴山城で自害。「平蜘蛛の釜」の逸話が生まれる 但馬攻... -
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豊臣兄弟!第13〜17回 史実解説|姉川・比叡山・小谷落城、通説はどこまで正しいのか
この記事のポイント 元亀元年(1570)、浅井長政が離反。信長は金ヶ崎から命がけの撤退をする 同年六月姉川の戦い。ただし「姉川」という呼び名は織田側の呼称で、浅井側は野村合戦と呼んだ 元亀二年(1571)比叡山焼き討ち。犠牲者数には諸説あり、近年の... -
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豊臣兄弟!第9〜12回 史実解説|竹中半兵衛はなぜ城を奪い、なぜ返したのか
この記事のポイント 第9〜12回は美濃攻略から信長上洛まで。織田家が地方勢力から中央の主役へ変わる時期 竹中半兵衛の稲葉山城乗っ取りは有名だが、動機も規模も諸説あって定まらない 永禄十一年(1568)の上洛で、信長は足利義昭を奉じて京へ入る この時... -
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豊臣兄弟!第1〜8回 史実解説|墨俣一夜城は本当にあったのか、兄弟の出自はどこまでわかるのか
この記事のポイント 豊臣秀長は天文九年(1540)ごろ尾張中村の生まれ。兄・秀吉とは三歳ほど違い 二人が異父兄弟だったとする説があり、これが豊臣家の弱点にもつながる 桶狭間(1560)のとき秀吉はまだ足軽級。歴史の中心にはいない 墨俣一夜城は史実性... -
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豊臣兄弟!第30〜31回「清須会議」史実解説|「勝家が三法師に反対した」は本当か
この記事のポイント 清須会議は天正十年(1582)六月。本能寺からわずか三週間後の会議だった 教科書的な「勝家が三法師に反対した」という筋書きは、後世の創作の可能性が指摘されている お市と勝家の婚姻は、秀吉と申し合わせたうえで成立したと勝家自身... -
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豊臣兄弟!第33回「北庄城の別れ」史実解説|お市はなぜ二度目の落城で城に残ったのか
この記事のポイント 天正十一年(1583)四月二十四日、柴田勝家とお市の方は北ノ庄城で自害した お市は三人の娘を城から出し、自分だけが残った。一度目の落城では生きた人である 勝家は「修理の腹の切り様を見て後学にせよ」と言い残したと伝わる 二人の... -
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豊臣兄弟!第32回「賤ヶ岳の決闘」史実解説|45分では描ききれない、あの一日の裏側
この記事のポイント 賤ヶ岳の戦いは天正十一年(1583)四月。決着はわずか一日でついた 勝敗を分けたのは槍ではなく脚——秀吉が美濃から五十キロを駆け戻った 柴田方は開戦前からすでに崩れていた。勝家の養子が敵に降っている 勝家が本陣を置いた玄蕃尾城... -
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柴田勝家の一族:生年も父母もわからない男が、養子たちとともに絶えるまで
この記事のポイント 柴田勝家は生年も出生地も父母も、確かなことがわかっていない。生年だけで四説ある 実子がいなかった。家をつないだのは養子たちだった その養子・甥たちは、天正十年から十一年までの二年間で、一人残らず失われた 最初に養子にした... -
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佐久間盛政はなぜ退かなかったのか:鬼玄蕃の一日と、賤ヶ岳が決まった瞬間
この記事のポイント 天正十一年(1583)四月二十日、佐久間盛政は大岩山砦を急襲して中川清秀を討ち取った だが柴田勝家の帰陣の督促に応じず、戦場に留まりつづけた そこへ秀吉が美濃から引き返してくる。盛政は夜中に退却を始めるが、もう遅かった 盛政... -
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なぜ秀吉は太田城を水攻めにしたのか:総延長五〜六キロの堤と、紀州征伐の一ヶ月
この記事のポイント 天正十三年(1585)の紀州征伐で、秀吉は紀伊太田城を水攻めにした 現地の案内板によれば、籠城したのは約五千人。秀吉軍が築いた堤は総延長五〜六キロ 攻防は一ヶ月。城主らの命と引き換えに、他の者は助命されたと伝わる 水攻めは強... -
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なぜ秀長は大和郡山に百万石を与えられたのか:地蔵まで石垣に積んだ、豊臣の弟の頂点
この記事のポイント 天正十三年(1585)閏八月十八日、秀長は大和を加増され三か国百万石の大名になった ただし百万石は名目で、実際の石高は七十三万四千石とされる 大和は興福寺・東大寺が力を持つ国。武家が最も治めにくい土地だった 石の乏しい国だっ... -
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まつ(芳春院)はなぜ自ら人質になったのか:前田家を救った十四年と、参勤交代の原型
この記事のポイント 慶長五年(1600)、前田家は徳川家康から謀反の嫌疑をかけられた。当主の利長は交戦する構えだった それを止めたのが利家の妻・まつ(芳春院)。自分が人質になると申し出て、江戸へ下った 滞在は十四年。この間に前田家は関ヶ原で東軍... -
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佐々成政はなぜ真冬の北アルプスを越えたのか:さらさら越えの真相と、越中の終わり
この記事のポイント 天正十二年(1584)の暮れ、佐々成政は真冬の北アルプスを越えて浜松の徳川家康を訪ねたと伝わる。これがさらさら越え 目的は援軍ではない。秀吉と和睦してしまった家康に、もう一度立ってくれと直訴するためだった 家康は動かなかった... -
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末森城の戦い:前田利家はなぜ六倍の兵に勝てたのか 加賀百万石が決まった三日間
この記事のポイント 天正十二年(1584)九月、佐々成政が約一万五千で能登の末森城を攻めた。城兵はわずか三百 救援に向かった前田利家の兵は二千五百。六倍の敵に対して、利家は正面から当たらず海岸沿いを抜けて背後を突いた 案内したのは地元の農民だっ... -
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伊達政宗はなぜ仙台城に天守を建てなかったのか:六十二万石が選んだ「見せない権威」
この記事のポイント 仙台城には天守がない。焼けたのではなく、最初から建てられなかった 理由は「徳川への配慮」だけではない。断崖の地形と大広間という別の権威の見せ方が揃っていた 天守を持たない・再建しない城は各地にある。水戸城、相馬中村城、金... -
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藤堂高虎はなぜ築城の名手になったのか:豊臣秀長に仕えた二十年と、七度替えた主君
この記事のポイント藤堂高虎は主君を七度替えたと言われるが、豊臣秀長の家にだけは家が絶えるまで仕えた秀長のもとで過ごした約二十年が、彼の人生で最も長い奉公だった築城の技術は設計の才ではなく、石と材木と人夫を動かす秀長の実務の現場で身につい...
