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浅井長政 中編:織田家との決裂から姉川の戦い 武田信玄の西上へ 中編【日本の歴史ブログ】
■ 日本の歴史ブログ 織田家との決裂から姉川の戦い 武田信玄の西上へ 中編 元亀元年(1570年)信長が浅井長政と交わした「朝倉への不戦の誓い」を破り、徳川家康と共に琵琶湖西岸を通過して越前国の朝倉方の城を攻め始めた。 長政は朝倉義景との同盟関係を... -
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浅井長政 前編:北近江の名将にて織田信長の義弟 浅井長政【日本の歴史ブログ】
■ 日本の歴史ブログ 北近江の名将にて織田信長の義弟浅井長政 前編 浅井長政は戦国時代の武将であり大名である。呼称は「あざい ながまさ」と「あさい ながまさ」の2説ある。長政は北近江の戦国大名浅井家の3代目当主にして最後の当主でもある。居城は滋賀... -
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小田原城落城後の北条氏の行く末は【日本の歴史ブログ】
■ 日本の歴史ブログ 小田原城落城後の北条氏の行く末は 戦国時代に関東をほぼ手中に収めていた「北条氏政・氏照」兄弟は中央で天下を狙う豊臣秀吉になかなか屈しなかった。天正18年(1590年)に秀吉の北条征伐が開始されると圧倒的な勢力に北条氏は籠城す... -
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亀井茲矩は秀吉に琉球攻めを懇願し許され琉球守を名乗るも・・・【日本の歴史ブログ】
■ 日本の歴史ブログ 亀井茲矩は秀吉に琉球攻めを懇願し許され琉球守を名乗るも・・・ 亀井茲矩は尼子義久の家臣で毛利輝元により尼子家が滅びると、山中鹿之助とともに織田信長に援助を求め旧領回復に努める。 しかし、四方八方に敵が残る信長は毛利攻めに... -
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東京の住宅街にある城跡とは?【日本の歴史ブログ】
■ 日本の歴史ブログ 東京の住宅街にある城跡とは? 世田谷城は吉良氏(吉良治家)が世田谷郷を与えられた時に館として整備された城である。 その後代々吉良家が治める城として栄えたが戦国時代に入り、吉良氏朝が「北条氏政」に味方をしたため豊臣軍に接取... -
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徳川家康に散財させられ続けた豊臣恩顧の大名達【日本の歴史ブログ】
■ 日本の歴史ブログ 徳川家康に散財させられ続けた豊臣恩顧の大名達 慶長十五年(1610年)徳川家康は、第九男の義直を尾張名古屋城主として任命する。任命すると同時に名古屋城の築城が開始された。この家康の実子が城主となる名古屋城の築城には加藤清正... -
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平将門の末裔相馬氏による由緒ある神事 相馬野馬追とは【日本の歴史ブログ】
■ 日本の歴史ブログ 平将門の末裔相馬氏による由緒ある神事 相馬野馬追 相馬野馬追とは現在の福島県南相馬市で行われる由緒ある祭りである。平将門は下総国相馬郡小金原にて軍事訓練の一環として野生の馬を解き放ちこれを敵兵とみなして訓練をしていたとい... -
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近藤勇 盟友土方歳三との最後の別れ方とは?【日本の歴史ブログ】
■ 日本の歴史ブログ 近藤勇 盟友土方歳三との最後の別れ方とは? 「鳥羽伏見の戦い」で薩摩藩・長州藩が主体の新政府軍に敗れた旧幕府軍や新選組は、惨憺たる思いでどうにか江戸へ帰還することが出来た。 近藤勇率いる新選組はその名を「甲陽鎮撫隊」と改... -
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戦国武将の人情(武田信玄 編)【日本の歴史ブログ】
■ 日本の歴史ブログ 戦国武将の人情(武田信玄 編)【日本の歴史ブログ】 武田信玄には人の使い方についての温かい話が残っている。岩間という部下は臆病もので、合戦の度に泣きわめいて、「俺は死にたくない!戦には行きたくない!」というのだった。 ま... -
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最盛期は全国の1/3を領した織田信長の石高は何万石?【日本の歴史ブログ】
■ 日本の歴史ブログ 織田信長の最盛期は全国の1/3を領し推定石高は約780万石? 日本全国で覇を競った戦国武将たちでしたが、実際に信長のように天下統一を目指した大名は数少ない。多くの戦国大名がそれぞれの領土を死守し、地方を経営することしか考えて... -
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織田信長が好んで謡った敦盛の一節その内容とは? 【日本の歴史ブログ】
■ 日本の歴史ブログ 織田信長が好んで謡った敦盛の一節その内容とは? 「信長公記」より信長が好んで謡い・舞ったと言われている「人間五十年~」という行(くだり)をご紹介。 信長が好んだと言われている「敦盛」は聞いたことがあるが内容までは・・とい... -
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津軽為信 早い者勝ちで見事に独立大名へ【日本の歴史ブログ】
■ 日本の歴史ブログ 津軽為信 早い者勝ちで見事に独立大名へ 津軽為信は陸奥の国を治める南部氏の家臣だった。 しかし、南部家が隣国の秋田家(安東家)と激しい争いをしている間にどんどん津軽地方を統一。 ついには強大な武力と権力を駆使して主家に背く... -
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凌霜隊 悲しい小藩の定め?新政府軍と旧幕府軍に二股をかけざるを得なかった郡上藩【日本の歴史ブログ】
■ 日本の歴史ブログ 悲しい小藩の定め?新政府軍と旧幕府軍に二股をかけざるを得なかった郡上藩【日本の歴史ブログ】 郡上藩は幕末時には青山家が治める領地でした。 2万4千石という小藩の悲しさなのか、戊辰戦争時は新政府軍と旧幕府軍の両方に味方する... -
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織田信長に反旗を翻した荒木村重の結末とは?【日本の歴史ブログ】
■ 日本の歴史ブログ 織田信長に反旗を翻した荒木村重の結末とは? 織田信長が本願寺攻めを本格的に始動していた当時、摂津の国(現:大阪)一国を与えられていたにも関わらず信長に反旗を翻した荒木村重。 謀反の理由は諸説あるが一番有力とされるのが、村... -
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真実ではない今川義元の上洛説?桶狭間の戦いは偶発的に起こった?【日本の歴史ブログ】
■ 日本の歴史ブログ 真実ではない今川義元の上洛説? 永禄三年(1560)五月一九日、尾張の桶狭間とその周辺で、信長は尾張に侵攻してきた今川義元の大軍を破った。いわゆる桶狭間の戦いである。当時、義元は駿河と遠江を中心に、三河の大半と尾張の一部に... -
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関ヶ原の戦い(後編):徳川家康と石田三成 戦国史上東西大合戦【史跡・城跡・銅像 日本の歴史】
【合戦名】 関ヶ原の戦い(後編) 【説明】 さて、徳川家康が関ヶ原に到着したのは九月十四日であった。そして付近の赤坂へ進み、岡山という小高い山の頂上を本陣とした。西軍(反家康軍)は関ヶ原の西方にあたる小関村に陣を取り、東軍(家康軍)と対峙す... -
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関ヶ原の戦い(前編):徳川家康と石田三成 戦国史上東西大合戦【合戦特集 日本の歴史】
【合戦名】 関ヶ原の戦い(前編) 【説明】 慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いは知る人ぞ知る、東西を大きく二分して「岐阜県不破郡関ケ原町」で争われた世紀の大合戦です。豊臣秀吉の死後、徳川家康は五大老・ご奉行の合議制を形骸化して実質的な政権運営者... -
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山内一豊:苦労の末に土佐一国の城主となった戦国武将 【人物特集 日本の歴史】
【名前】 山内一豊 【説明】 『苦労の末に土佐一国の城主となった戦国武将』 山内一豊はNHKの大河ドラマ「功名が辻」で一躍有名になった戦国武将です。 父が織田信長と同族の岩倉織田家に仕えていたが、信長に滅ぼされてしまい一族は離散する。 その後、一... -
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川中島の戦い(後編):上杉謙信と武田信玄の大合戦 啄木鳥の戦法(後編)【合戦特集 日本の歴史】
【合戦名】 川中島の戦い 【説明】 戦国史上あまりにも有名な川中島の戦い “後編” をご紹介させて頂きます。前編では武田軍に悟られないように上杉謙信が妻女山を降りてきたところで終わりました。 十日朝、武田本隊の目の前に突如上杉軍一万三千が陣取っ... -
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川中島の戦い(前編):上杉謙信と武田信玄 戦国史に残る大合戦【合戦特集 日本の歴史】
【合戦名】 川中島の戦い 【説明】 甲斐の武田信玄と越後の上杉謙信が北信濃の覇権を争って激突した合戦が川中島の戦いです。合計五回の戦いが行われており、中でも永禄四年(1561年)九月の第四次は激烈な戦闘となった。 上杉軍は八月十六日、五千の兵を...
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