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賤ヶ岳の七本槍とは:七人のその後と、秀吉が英雄を作らなければならなかった理由
この記事のポイント賤ヶ岳の七本槍は、天正十一年(1583)の合戦で秀吉から感状を受けた七人の若武者福島正則・加藤清正・加藤嘉明・脇坂安治・平野長泰・糟屋武則・片桐且元同じ日に同じ功を認められながら、その後は五十二万石から五千石まで分かれた秀... -
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天正大地震とは:帰雲城が消えた夜と、秀吉が家康攻めを断念した理由
この記事のポイント天正十三年十一月二十九日(1586年1月18日)の夜、飛騨から近江にかけて巨大地震が起きた飛騨の帰雲城は山崩れに呑まれ、城主・内ヶ島氏理の一族もろとも地上から消えた長浜城は倒壊し、山内一豊は六歳の一人娘を失っている秀吉は大垣に... -
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旭姫と大政所:秀吉はなぜ妹と母を差し出したのか 家康を臣従させた人質外交
この記事のポイント小牧・長久手のあと、秀吉は家康を武力では従わせられなかった天正十四年(1586)五月、四十四歳の妹・旭姫を離縁させて家康の正室に送ったそれでも家康が動かないため、同年十月には七十歳を超える生母・大政所まで岡崎へ送った領地で... -
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秀吉はなぜ関白になったのか:征夷大将軍を選ばなかった理由と豊臣姓の創出
この記事のポイント秀吉が関白に就いたのは天正十三年(1585)七月十一日。四国平定と同じ年であるきっかけは公家社会の内紛「関白相論」で、秀吉はその調停者として割って入った「将軍になれなかったから関白になった」という通説の根拠は、後世の編纂物... -
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大坂城築城と豊臣秀長:石と材木をどう集めたか 天下普請の原型と弟の実務
この記事のポイント大坂城の着工は天正十一年(1583)九月。賤ヶ岳の勝利からわずか四か月後だった天下人の城づくりは「築く」より「集める」仕事で、石・材木・人夫の割り当てが本体だった秀長は但馬の銀山、大和・紀伊の材木、堺と和泉の水運という、資... -
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前田利家はなぜ賤ヶ岳で退いたのか:裏切りか生き残りか 加賀百万石への分岐点
この記事のポイント前田利家は柴田勝家の家臣ではなく、信長が勝家に付けた与力(寄騎)だった賤ヶ岳では茂山に布陣しながら戦わずに府中へ退き、勝家軍の崩壊を決定づけた利家は秀吉方に加わったわけでもなく、いったん戦場から降りるという第三の道を選... -
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柴田勝家とは:瓶割り柴田の実像と、北ノ庄城で迎えた最期 賤ヶ岳の敗因
この記事のポイント 柴田勝家はもともと信長の弟・信行に付けられた家老で、信長とは一度戦って負けた側だった 「瓶割り柴田」の逸話は後世の武辺話に由来するが、勝家の人物像を決定づけた 越前北ノ庄では刀狩や用水開削など、武辺一辺倒では説明できない... -
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豊臣秀長と秀吉の出自:異父弟説の真相と、なぜ弟だけが最後まで裏切らなかったのか
この記事のポイント秀吉と秀長は母・なか(のちの大政所)を同じくする兄弟。父が違う「異父弟」とする説が有力だが、同じ木下弥右衛門の子とする見方も消えていない生年は秀吉が天文六年(1537)、秀長が天文九年(1540)とされ、その差は三歳。幼名は小... -
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お市の方と浅井三姉妹:二度の落城を生きた信長の妹 北ノ庄で娘を送り出した夜
この記事のポイントお市の方は生涯に二度、城が落ちる夜を経験している。小谷と北ノ庄である一度目は娘たちと生き延び、二度目は自ら残ることを選んだ。その差は何だったのか三姉妹を城から出したのは、勝家ではなくお市の意思だったと考えられる茶々・初... -
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国友鉄砲の里(長浜市):鉄砲鍛冶の里と国友一貫斎 資料館の見どころとアクセス
この記事のポイント種子島に鉄砲が伝わった翌年、幕府の命でその複製に挑んだのが近江の国友村だった信長・秀吉・家康がこぞって保護し、堺と並ぶ二大産地に成長した泰平の世が来ると需要は細り、鍛冶たちは猟銃や日用の金物へ転じていくその系譜の果てに... -
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金閣寺・銀閣寺・清水寺と戦国時代──京都の名刹が見た「乱世のはじまり」と復興
この記事のポイント 銀閣寺は8代将軍足利義政が「応仁の乱」の直後に築いた東山文化の象徴。この乱こそ戦国時代の幕開けだった。 金閣寺は3代足利義満が築いた室町最盛期=北山文化の象徴。応仁の乱の戦火をくぐり抜けて残った。 清水寺は戦国の兵火で焼失... -
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池田屋事件のすべて──新選組はなぜ三条小橋で斬り込んだのか(跡地は今「はなの舞」)
この記事のポイント 元治元年(1864)6月5日、新選組が三条小橋の旅館「池田屋」で尊王攘夷派の志士を襲撃した幕末最大級の斬り合い。 発端は、新選組が捕らえた古高俊太郎への拷問で判明した“京都焼き討ち計画”だった。 近藤勇・沖田総司・永倉新八らが斬... -
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大村益次郎「木屋町の遭難」──“日本陸軍の父”はなぜ同郷の刃に斃れたのか
この記事のポイント 大村益次郎は周防(現・山口県)の村医者から身を起こし、「日本陸軍の父」と呼ばれた天才兵学者。 戊辰戦争では新政府軍の事実上の総参謀として上野の彰義隊を一日で平定した。 明治2年(1869)9月、京都・三条木屋町の旅館で不平士族... -
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佐久間象山「三条木屋町の遭難」──幕末最大の先覚者はなぜ京で斬られたのか
この記事のポイント 佐久間象山は信州松代藩の出身。「和魂洋才」を掲げ、西洋の科学・砲術を貪欲に取り入れた幕末最大級の先覚者。 勝海舟・吉田松陰・坂本龍馬ら、時代を動かす人材を数多く育てた“師の中の師”。 元治元年(1864)7月11日、京都・三条木... -
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坂本龍馬・中岡慎太郎「近江屋事件」──維新の立役者はなぜ京の醤油商の二階で斃れたのか
この記事のポイント 慶応3年(1867)11月15日、坂本龍馬と中岡慎太郎は京都・河原町の醤油商「近江屋」の二階で襲われた。 龍馬はほぼ即死、中岡は約2日間生き延びたのち絶命。享年は龍馬33歳・中岡30歳(数え)。 実行犯は京都見廻組が有力とされるが、新... -
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北政所ねね(高台院)とは〜天下人・秀吉を支えた糟糠の妻の実像と、子飼い武将たちに慕われた政治力
この記事のポイント(先に結論) 北政所ねね(おね・高台院)は、秀吉が身分の低い時代に結ばれた「恋愛結婚」の妻。天下人の糟糠の妻として、豊臣政権を家庭の側から支え続けた。 加藤清正・福島正則ら「秀吉子飼い」の武将たちにとって、ねねは実の母の... -
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豊臣秀吉・秀長ゆかりの城めぐり完全ガイド〜大河『豊臣兄弟!』の舞台を五つのテーマでたどる
この記事のポイント(先に結論) 大河ドラマ『豊臣兄弟!』をより深く楽しむために、豊臣秀吉・秀長兄弟ゆかりの城を、物語の流れに沿って一気にめぐるガイド。 「出世の城」「天下人の城」「弟・秀長の城」「四国・九州平定の城」「豊臣家終焉の城」の五... -
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石田三成:なぜ嫌われ、なぜ敗れたのか〜豊臣政権を支えた天才官僚の実像と関ヶ原の真実
この記事のポイント(先に結論) 石田三成は「戦下手の嫌われ者」というイメージで語られがちだが、実像は豊臣政権を実務で支えた稀代の行政官だった。 三成が関ヶ原で敗れた最大の要因は、軍事力の差ではなく「人望のネットワーク」の差にあった。ここに... -
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真田幸村(信繁)とは何者か〜「日本一の兵」の実像と、家康を追い詰めた大坂の陣の真実
この記事のポイント(先に結論) 「真田幸村」は後世の呼び名で、本人が名乗った実名は「真田信繁」。英雄像の多くは江戸時代の講談が育てた虚像を含んでいる。 幸村が愛されるのは、勝ったからではなく「負けると分かっていた戦いで、家康をあと一歩まで... -
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黒田官兵衛(如水):秀吉が最も恐れた天才軍師〜有岡城の幽閉から関ヶ原の九州切り取りまで
この記事のポイント(先に結論) 黒田官兵衛(孝高・如水)は、豊臣秀吉の天下取りを軍略で支えた稀代の軍師。だが有能すぎたがゆえに、主君・秀吉から警戒される宿命を負った。 本能寺の変の直後、動揺する秀吉に「天下取りの好機」と囁いたのは官兵衛だ...
