戦国に嫁いだ娘は実家へ帰れたのか|帰れたのは三つの場合だけ ─ どれにも当てはまらなかったあさひと、逆向きの「見舞い」

金地の襖の奥御殿で、上座に並んで座る老女と中年の女性、かしこまる女房たち(イメージイラスト)
この記事のポイント
  • 戦国で嫁いだ娘が実家へ帰るのは、家が滅びたとき、同盟が切れたとき、夫が亡くなったときのほぼ三つに限られます
  • あさひ(旭姫)はそのどれにも当てはまりません。豊臣も徳川も健在で、家康も生きていました
  • それなのに天正十六年、母の見舞いに京へのぼったまま駿府へは戻りませんでした
  • 二年前の天正十四年は、逆に母の大政所が「娘の見舞い」を名目に岡崎へ下っています。同じ言葉が母と娘のあいだを逆向きに行き来しました

戦国の世で嫁いだ娘は、簡単には実家へ帰れません。婚姻は家と家の約束で、妻はその約束そのものでしたから、帰るというのは約束が切れることを意味しました。ところが天正十六年、徳川家康の正室だったあさひは、母の病気を見舞うために京へのぼり、そのまま駿府へ戻りませんでした。豊臣も徳川も健在で、家康も生きている。帰る理由がないはずの立場で、帰ったきりになったのです。

嫁いだ娘が実家へ帰るとき ─ 三つの場合一 家が滅びたときお市の方は小谷が落ちたのち織田へ。督姫は北条が滅びたのち徳川へ戻った二 同盟が切れたとき武田信玄の娘・黄梅院は、甲相同盟の破綻で北条から甲斐へ返された三 夫が亡くなったとき後家となった女性が実家に身を寄せ、あるいは髪を下ろして寺に入ったそして、あさひ(旭姫)豊臣の家は滅びていない。豊臣と徳川の間も切れていない。夫の家康も生きている。三つのどれにも当てはまらないのに、母の見舞いに京へのぼったまま、駿府へは戻りませんでした。

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嫁いだ娘は実家へ帰れたのか

まず前提を整理します。戦国の輿入れは、花嫁行列から請取渡しまで一つ一つ手順が決まっていました。人が移るというより、家と家のあいだで約束が取り交わされる儀式です。

だから嫁いだ娘が実家へ戻るのは、よほどのことがあったときでした。里帰りという習慣が無かったわけではありませんが、大名家の正室ともなると、本国を離れて嫁いだ先の城で暮らし、そこで生涯を終えるのが普通です。

帰れた三つの場合

それでも帰った例はあります。並べてみると、理由はおよそ三つに分かれます。

ひとつめは実家か嫁ぎ先の家が滅びたときです。お市の方は小谷城が落ちたのち兄の信長のもとへ戻りました。督姫も、北条氏直に嫁いだあと北条家が滅び、父の家康のもとへ帰っています。

ふたつめは同盟が切れたときです。武田信玄の娘・黄梅院は北条氏政に嫁いでいましたが、甲相同盟が破れると甲斐へ返されました。妻が約束そのものである以上、約束が消えれば妻も戻されます。

みっつめは夫が亡くなったときです。後家となった女性が実家に身を寄せる、あるいは髪を下ろして寺に入るのは、よくある道でした。

東海道を進む旭姫の花嫁行列のイメージ(イラスト)
旭姫の花嫁行列のイメージ(イラスト)。天正十四年五月、あさひは東海道を下って浜松へ入りました(戦国の輿入れはどう行われたのか)

天正十四年の「見舞い」── 母が娘を訪ねた

ここで二年前にさかのぼります。

天正十四年十月、秀吉の母大政所が三河の岡崎へ下りました。名目は、徳川に嫁いだ娘あさひの見舞いです。実際には家康を上洛させるための人質でした。母を手放してまで迎えに来いという、秀吉の最後の一手です。

この名目は誰の目にも口実と分かるものでした。それでも「見舞い」という言葉が選ばれたのは、人質という生々しい言い方を避けつつ、母と娘という理由なら誰も文句を言えないからです。

家康は十月二十七日に大坂城で秀吉に頭を下げ、十一月には大政所が京へ帰りました。十二月、家康は本拠を駿府へ移し、あさひも移って「駿河御前」と呼ばれるようになります。

天正十六年の「見舞い」── 娘が母を訪ねた

二年後、同じ言葉がもう一度使われます。今度は向きが逆でした。

天正十六年、大政所が病に伏せます。秀吉は母の回復を願って寺社に祈らせており、この病は本物だったと見られます。あさひは母を見舞うために京へのぼりました。

そして、戻らなかったのです。

二年をへだてた、逆向きの「見舞い」天正十四年五月あさひが浜松の家康に嫁ぐ天正十四年十月大政所が「娘の見舞い」として岡崎へ下る天正十四年十月二十七日家康が大坂城で秀吉に会う天正十四年十一月大政所が京へ帰る天正十四年十二月家康が駿府へ移り、あさひも「駿河御前」と呼ばれる天正十六年大政所が病に伏せ、あさひが見舞いのため京へのぼる天正十八年正月十四日あさひ、聚楽第で没する。四十八歳天正二十年七月大政所が没する見舞いに行った娘のほうが、見舞われた母より二年半早く世を去りました。

なぜ戻らなかったのか

理由を直接記した史料はありません。旭姫はなぜ駿府ではなく京都で亡くなったのかで挙げた通り、母の看病が長引いたこと、あさひ自身の体調、家康もしばしば在京していたことなどが考えられます。

ただ、三つの場合に照らすと、別の見え方も出てきます。あさひの輿入れは秀吉が四十四歳の妹を嫁に出すしかなかった事情から生まれたもので、家康を臣従させるという役目がありました。その役目は、天正十四年十月の大坂城で果たし終えています。

つまり、二年後にはもう、この婚姻が担うべき仕事は残っていなかったのです。離縁という形は取られず、あさひは駿河御前のまま京にいました。帰ったのではなく、戻る必要がなくなっていた、と言ったほうが近いのかもしれません。

農家の土間で母なかを囲む、とも・藤吉郎・小一郎・旭の四人きょうだいのイメージ(イラスト)
母なかと四人のきょうだいのイメージ(イラスト)。あさひが最後に帰っていったのは、この母のもとでした

帰らなかった女性たち

逆の例を見ると、あさひの異例さがはっきりします。

伊達政宗の正室・愛姫は、実家の田村家が秀吉に所領を取り上げられても伊達にとどまりました。細川忠興の妻・玉は、父の明智光秀が謀反人となったあとも離縁されず、丹後の山里に移されたのち呼び戻されています。

実家が傾いても、娘は嫁ぎ先に残るほうが普通でした。帰るか残るかを決めたのは本人ではなく、二つの家の都合だったからです。母の病気というだけで帰れるものではありません。

だからこそ、あさひが京にとどまり続けたことは目を引きます。徳川が引き戻さず、豊臣が返さなかった。双方がそれでよいと考えたということです。

見舞いに行った娘が、先に逝った

あさひが亡くなったのは天正十八年正月十四日、聚楽第でした。四十八歳です。

そして大政所が亡くなるのは、その二年半後の天正二十年七月。見舞われた母のほうが、見舞いに来た娘より長く生きたことになります。

あさひの死の七か月後、家康は関東へ移りました。もし生きていれば、駿河御前はそのまま江戸へ移ったはずです。家康の正室は築山殿とあさひの二人だけですが、二人とも夫と同じ場所で最期を迎えていません。

よくある質問

Q. あさひは家康と離縁したのですか?
A. 離縁の記録はありません。亡くなるまで家康の正室のままで、「駿河御前」と呼ばれ続けました。

Q. 家康は迎えに行かなかったのですか?
A. 連れ戻そうとした形跡は伝わっていません。家康自身もしばしば京に滞在しており、会う機会がなかったわけではありません。

Q. 嫁いだ娘が実家に帰るのは本当に珍しいのですか?
A. 帰った例はあります。ただ、その多くは家が滅びたか、同盟が切れたか、夫が亡くなったときです。どれにも当たらないあさひの例は、やはり異例です。

Q. 大政所の病気は本当だったのですか?
A. 秀吉が寺社に平癒を祈らせていることから、本物だったと見られます。二年前の「娘の見舞い」が口実だったのとは対照的です。

まとめ

嫁いだ娘が実家へ帰るには、家が滅びるか、同盟が切れるか、夫が死ぬか。戦国の婚姻とはそれほど固い約束でした。あさひはそのどれにも当たらないまま、母の見舞いを理由に京へのぼり、帰らずに終わります。見方を変えれば、この婚姻は家康を上洛させた時点で役目を終えていたのです。二年前には母が「娘の見舞い」を口実に岡崎へ下り、二年後には娘が本物の見舞いで京へのぼった。同じ言葉が逆向きに使われたこの二度の往復に、豊臣と徳川の関係の移り変わりがそのまま出ているように思います。

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