堀の幅は四十三メートル、深さは十メートル。石垣は堀底から十二メートル立ち上がり、金箔瓦の天守が建っていました。そして馬出が三か所。屋敷に馬出は要りません。構造だけ見れば、まぎれもなく城です。それなのに秀吉自身は自筆の手紙で「しゆらくやしき」と書いています。
- 聚楽第の堀と石垣と天守が、どれほどの規模だったか
- 城の造りなのに「第(やしき)」と呼ばれた理由
- 天皇を迎えて二十九人の大名に何を誓わせたのか
- なぜ秀吉自身が、わずか八年で跡形もなく壊したのか
- 同じ問いを抱える伏見城との違い
地下三メートルから出てきたもの
平成二十四年、京都の警察の宿舎を建て替える工事で、地表から三メートルほど下に石垣が現れました。東西におよそ三十二メートル。石は花崗岩が主で、大きいものは一トンを超えます。勾配は五十五度。本丸の南側を守っていた石垣でした。
ただ、残っていたのは四段だけです。復元してみると、全体の三分の二から四分の三の石が抜き取られていたと推定されました。堀も埋め戻されていて、埋めた土のなかから金箔の瓦が出てきます。
金箔の瓦は、狩野永徳が障壁画を描いた建物にふさわしい格のものでした。それが砕かれて堀に投げ込まれています。
つまりこの石垣は、崩れたのではありません。人の手で解体されたのです。壊したのは、建てた本人でした。
構造は、どう見ても城だった
- 堀 本丸南堀と西之丸南堀は幅四十三メートル余、深さ約十メートル。本丸東堀は推定二十六メートル、深さ八メートル余
- 石垣 復元案では二段構造で、堀底から頂部まで八メートルから十二メートル以上
- 天守 外観四重、内部五階とされる。白漆喰に金箔瓦
- 馬出 本丸の南と西に各一か所。のちに秀次が北之丸を加えて三か所に
- 外郭 北は元誓願寺通、東は堀川通、南は下立売通、西は千本通
注目したいのが馬出です。城から兵を出すときに、敵に正面をさらさないための仕掛けで、純粋に軍事のためのものです。接待のための屋敷には必要ありません。これが三か所もあったということは、設計した人間が城として造ったということです。
石垣にも特徴があります。同じ時代のほかの城と比べて大きな自然石を使い、墓石や石仏の転用石を使っていない。急いで積んだのではなく、石を選んで運んでいます。信長が安土で見せようとしたものと同じで、見せるための普請でした。
では、なぜ「第」と呼ばれたのか
行政や考古学の側の見方ははっきりしています。京都府の教育委員会は「本格的な石垣をもつ平地城館」、京都市の考古資料館は「大規模な平城」「天下人の政庁」と書いています。構造を見るかぎり城だ、という評価で一致しています。
では呼称はなぜ屋敷なのか。京都市の専門家は講座で「なぜ聚楽城ではないのか」と問いを立てていますが、資料のなかに答えは書かれていません。開かれたままの問いです。
有力な見方はこうです。秀吉は天正十三年に関白になりました。関白は朝廷の官職であって、武家の棟梁ではありません。豊臣という氏を得たのと同じ年です。公家の世界で邸宅を指す「第」という語を選んだのは、城と呼ばないこと自体が政治的な選択だったから、という読み方です。
何のために建てたのか ── 二十九人の誓い
この建物の目的は、天正十六年四月の出来事に凝縮されています。
後陽成天皇が聚楽第に行幸しました。秀吉が牛車で御所まで迎えに行き、御所から聚楽第まで約一・五キロの行列。全国から六千余の警護兵を配し、供をした公家は五十一名、武家は百十六名。五日間にわたって饗宴、和歌の会、舞楽が催されました。
その二日目に、諸大名から誓紙が取られています。文面はこうです。
関白殿仰せ聴さるゝの趣、何篇において、聊も違背申すべからざる事
関白が言うことには、何事であれ少しも背きません、という意味です。署名したのは二十九人。織田信雄、徳川家康、豊臣秀長、豊臣秀次、宇喜多秀家、前田利家ら六名が一通目、残り二十三名が二通目に名を連ねました。
この誓いの筆頭近くに豊臣秀長の名があります。兄の政権を支える立場が、署名の順にも出ています。
面白いのは署名の書き方です。家康は「源家康」、信雄は「平信雄」、長宗我部元親は「秦元親」と本姓で書かれている一方、前田利家や細川忠興、蒲生氏郷らは「豊臣利家」「豊臣忠興」と記されています。秀吉が自分の氏を配って、大名たちを自分の家の下に位置づけていった過程が、署名そのものに出ています。
天皇の御前で、武家が関白への絶対服従を誓う。これを成立させるには、天皇を迎えられる格式と、大名を圧倒する構えの両方が要ります。城であり屋敷である必要があったのは、そのためでした。
八年で、秀吉自身が壊した
完成が天正十五年九月、破却が文禄四年八月。八年足らずです。
秀吉はこの建物に四年三か月ほど住み、天正十九年十二月に関白職と家督とともに甥の秀次へ譲りました。弟の秀長が死に、鶴松が死んだ年です。秀次は北之丸を増築し、天正二十年正月には自ら天皇を迎えて二度目の行幸を実現しています。短い間に同じ場所へ二度の行幸というのは、ほかに例がありません。
秀次がどれほど速く出世したかを思えば、譲られた建物の大きさもうなずけます。関白の政庁をそのまま受け取ったのですから。
そして文禄四年七月、秀次が高野山で切腹します。その翌月から破却が始まりました。
壊し方が徹底しています。建物を解体して資材を伏見へ運んだだけではありません。石垣の石を抜き、堀を埋め、瓦を堀に投げ込み、さらに城下に住んでいた武家も町人も、まとめて伏見へ移しました。同時代の記録には「一宇も残さず、基礎にいたるまで悉く毀たしめ」とあります。
伏見城は、逆の順番をたどった
聚楽第が「屋敷と呼ばれた城」なら、伏見城は「屋敷として始まって城になった」建物です。
文禄元年、秀吉は宇治川に臨む指月の岡に隠居所を造りはじめました。当初はあくまで屋敷構えのつもりだったとみられています。ところが翌年に秀頼が生まれ、話が変わります。石垣を積み、天守を上げ、本格的な城に作り替えられました。
同時代の記録に「かりそめに城をかまえ」という言い方があります。城と屋敷の境目が、そのまま言葉に出ています。
この城の天守や櫓や門は、茶々が鶴松を産んだ淀城から移されたと伝えられます。壊した建物の部材が次の建物になる、というのがこの時代のやり方でした。聚楽第の資材も伏見へ運ばれています。
なお、指月の伏見城については「そんな城はなかった」という説が出たこともありました。平成二十七年に石垣と堀と金箔瓦が見つかって、決着しています。
いま残っているもの
地上に建物は一つも残っていません。安土城を描いた屏風が行方知れずなのと同じで、天下人の建てたものほど残らない、という皮肉がここにもあります。
- 石碑 四基。中立売通や智恵光院通などに立つ
- 町名 須浜町、天秤丸町、山里町、北之御門町、東堀町。黒門通は東門に由来
- 大名屋敷の町名 如水町(黒田如水)、浮田町(宇喜多秀家)、主計町(加藤清正)
- 聚楽土 跡地の地下の粘土。いまも土壁の材料として採られている
- 出土した金箔瓦 平成十四年に重要文化財に指定
移築の伝承は多く、大徳寺の唐門、西本願寺の飛雲閣、妙覚寺の大門などが聚楽第からと伝えられます。ただし辞典類は「聚楽第の遺構と確認された建物はない」と書いており、文化庁の記録も大徳寺唐門に「確実な資料はない」、飛雲閣に「詳らかでない」としています。
そして聚楽第跡は、国の史跡に指定されていません。平成二十五年に研究者の団体が指定を求める要望書を出していますが、実現していません。重要文化財になっているのは、出土した瓦だけです。
よくある質問
天守は本当にあったのですか。
『兼見卿記』『言経卿記』『駒井日記』という三つの同時代の日記が「天主」「殿主」に言及しています。存在はほぼ確実です。ただし天守台が発掘で確認されたことはなく、層数や姿は屏風絵に頼っています。
秀長も聚楽第に屋敷を持っていたのですか。
はい。外郭のなかに豊臣秀長、前田利家、黒田孝高、細川忠興、蒲生氏郷らの屋敷が並んでいました。千利休も北東の門の近くに屋敷を与えられています。
どこへ行けば跡地が見られますか。
京都市上京区の内野一帯です。石碑はありますが、遺構は地下にあります。松林寺の境内の落ち込みが堀跡として紹介されることがありますが、聚楽土を採った跡という見方もあって確定していません。
聚楽第と大坂城は、どちらが本拠だったのですか。
軍事と経済の本拠は大坂で、聚楽第は京における政庁でした。秀吉は両方を持っていました。京に天下人の城を築いて、そこに住むこと自体に意味があった、というのが研究機関の見方です。
まとめ
聚楽第は、構造は城で、呼称は屋敷で、機能は政庁でした。どれか一つに決められないのは、秀吉という人が武力と官位の両方で天下を押さえようとしたからです。
その建物を、秀吉は自分の手で消しました。石を抜き、堀を埋め、住民ごと移して。豊臣という氏を立てた人が、その氏を継いだ甥の痕跡を消すために、自分の最高の政庁を壊したことになります。
令和五年の調査では、外堀の幅が従来の推定四十五メートルではなく、十二メートルだったことが分かりました。この建物の正体は、まだ確定していません。
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