毛利秀元とは:秀長の娘きくを妻にした毛利の跡継ぎ、関ヶ原「宰相殿の空弁当」と長府藩のはじまり

毛利家の旗が立つ山の上から、煙の上がる関ヶ原の戦場を見下ろす若い武将と家臣たちのイメージ(イラスト)
この記事のポイント
  • 毛利秀元(1579〜1650)は毛利元就の孫で、子のなかった毛利輝元の跡継ぎとして育てられた武将です
  • 文禄4年(1595)に秀長の娘・きく(大善院)を妻に迎えますが、同じ年に輝元に実子の秀就が生まれ、跡継ぎの座を離れました
  • 関ヶ原では毛利勢を率いて南宮山に陣取りましたが、吉川広家が道をふさいで動けず、「宰相殿の空弁当」の逸話が生まれます
  • 戦後は長府藩の初代藩主となり、晩年は三代将軍家光の話し相手を務めた茶人でもありました

『豊臣兄弟!』で池端杏慈さんが演じる秀長の娘・末。そのモデルの一人と考えられるのが、秀長の娘「きく」です。きくが嫁いだ相手が、毛利元就の孫・毛利秀元でした。毛利の跡継ぎとして豊臣家の娘を妻に迎えながら、その年のうちに跡継ぎの座を失い、関ヶ原では一歩も動けないまま敗れる。それでも長府藩の祖となり、七十二歳まで生きた秀元の生涯をたどります。

目次

元就の孫、輝元の跡継ぎとして

毛利秀元は天正7年(1579)、毛利元就の四男・穂井田元清の子として生まれました。当時の毛利家の当主は、元就の孫にあたる輝元です。輝元には長く子がなかったため、いとこにあたる秀元が跡継ぎとして輝元の養子に迎えられました。養子となった時期は天正13年(1585)ごろとされますが、はっきりした同時代の記録は見つかっていません。

天正20年(1592)、朝鮮へ向かう秀吉が広島に立ち寄ったとき、秀元は初めて秀吉に会います。秀吉は秀元を輝元の跡継ぎとして認め、自分の名から「秀」の字を与えました。秀元という名はここから始まります。輝元が築いた広島城については 広島城 で紹介しています。

十代で渡った朝鮮

秀元は十四歳で朝鮮出兵に加わり、翌文禄2年(1593)には、病気の輝元に代わって毛利勢を率いました。晋州城の攻撃にも加わり、釜山の守りについています。慶長2年(1597)からの慶長の役でも、毛利勢の大将として渡海しました。若くして大軍を任されたことからも、毛利家が秀元を後継ぎとして重く見ていたことが分かります。朝鮮出兵の全体像は 朝鮮出兵をわかりやすく解説 をご覧ください。

秀長の娘・きくとの結婚 ── 嫁いだ年に、跡継ぎではなくなった

文禄4年(1595)2月、秀元は秀長の娘・きく(のちの大善院)を正室に迎えました。きくは天正16年(1588)生まれで、このときわずか八歳です。秀長はすでに亡く、大和豊臣家は養子の秀保が継いでいましたが、豊臣家の娘を毛利の跡継ぎに嫁がせることには、毛利家を豊臣政権に強く結びつける意味がありました。

ところがこの年、事情は大きく変わります。4月に秀保が十七歳で急死して大和豊臣家が絶え、10月には、四十歳を過ぎた輝元に待望の実子・松寿丸(のちの秀就)が生まれたのです。毛利家の跡継ぎは秀就と決まり、秀元は跡継ぎの座を譲ることになりました。嫁いだその年に、きくの実家は消え、夫は跡継ぎでなくなったことになります。

きくは子を産まないまま、慶長14年(1609)に二十二歳で亡くなりました。秀元はのちに、家康の養女(松平康元の娘)を後妻に迎えています。秀長の娘たちの生涯は 末とは:秀長のひとり娘は実在? 三人いた娘と、毛利秀元に嫁いだきく で、秀長の家の行方は 豊臣秀長の子孫・家系はどうなったのか で詳しく書いています。秀長の妻・慶(慈雲院)については 慶(ちか)とは をご覧ください。

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独立した大名へ

跡継ぎの座は離れたものの、秀元の働きは秀吉にも認められていました。秀吉が亡くなった翌年の慶長4年(1599)、秀元は毛利家から長門一国と周防の吉敷郡、あわせて約十八万石を分けられ、独立した大名の扱いを受けます。跡継ぎから外れた秀元を、そのまま家臣の一人に戻すわけにはいかなかったのでしょう。

関ヶ原 ── 南宮山から動けなかった一日

慶長5年(1600)、輝元は西軍の総大将として大坂城に入り、秀元は毛利勢を率いて美濃へ向かいました。9月15日の決戦の日、秀元は関ヶ原の東にある南宮山に陣を敷きます。ところが、山のふもと側に陣取った一族の吉川広家は、ひそかに東軍の黒田長政らと話をつけ、毛利家の領地を守ることと引き換えに戦わない約束をしていました。広家が動かないため、その後ろにいた秀元の軍勢も山を下りられず、戦いが終わるまで一度も戦わずに終わります。

▽ よく語られる話
出陣を促す使者に、秀元は「いま兵に弁当を食べさせている」と答えて動かなかった。参議(唐名で宰相)だった秀元にちなみ、これを「宰相殿の空弁当」と呼ぶ。
▼ 史実ではこうです
この言い訳の話は後の時代に広まった逸話で、同時代の記録で確かめられるものではありません。はっきりしているのは、前にいた吉川広家が道をふさいでいたため、秀元が動こうにも動けなかったということです。秀元自身が戦う気でいたのか、広家と同じ考えだったのかについては、見方が分かれています。

関ヶ原の戦いの全体像は 関ヶ原の戦いをわかりやすく解説 で、広家に働きかけた黒田長政については 黒田長政とは で紹介しています。

錦帯橋ごしに見上げた雨の岩国城天守
岩国城(山口県岩国市)。関ヶ原で秀元の前をふさいだ吉川広家は、戦後この岩国に移りました。

長府藩のはじまり

関ヶ原のあと、毛利家は西軍の総大将を務めた責任を問われ、中国地方の大半を失って周防・長門の二か国に減らされました。秀元もこの中から三万六千石ほどを分けられ、長門の長府(いまの山口県下関市)に移ります。これが長府藩のはじまりで、秀元はその初代藩主となりました。吉川広家の岩国については 岩国城跡 で紹介しています。

長府に移ってからの秀元は、若い本家の当主・秀就を後見する立場にありました。ただ晩年には、本家とのあいだで意見の食い違いが重なり、関係がこじれたことも伝わっています。

家光の話し相手、茶人として

秀元は武将としてだけでなく、茶人としても知られていました。茶の湯を学んだ師は、千利休の弟子で大名茶人の古田織部です。寛永2年(1625)には、三代将軍の徳川家光のそばに仕える御伽衆に加えられ、茶を献じたり和歌を詠んだりして、晩年まで家光との交流が続きました。利休の弟子たちがどんな道をたどったのかは 千利休の弟子たちはどうなったのか で取り上げています。

茶室で初老の武将が若い将軍に茶碗を差し出すイメージ(イラスト)
茶室で徳川家光に茶を献じる毛利秀元のイメージ(イラスト)。記録をもとに描いた想像図です。

秀元は慶安3年(1650)、七十二歳で亡くなりました。長府藩は子の光広が継ぎ、幕末まで続いています。

よくある疑問

Q. 毛利秀元の読み方は?
A. 「もうり ひでもと」と読みます。

Q. 毛利秀元の妻は誰ですか?
A. 最初の妻は豊臣秀長の娘・きく(大善院)で、慶長14年(1609)に亡くなりました。その後、家康の養女(松平康元の娘)を妻に迎えています。

Q. 毛利秀元と毛利輝元の関係は?
A. いとこどうしです。子のなかった輝元の養子として跡継ぎとされましたが、輝元に実子の秀就が生まれたため、跡継ぎから外れました。

Q. 「宰相殿の空弁当」とは?
A. 関ヶ原で南宮山から動かなかった秀元が、「弁当を食べている」と言い逃れたという逸話です。後世に広まった話で、同時代の記録では確かめられません。

まとめ

毛利秀元は、毛利の跡継ぎとして育てられ、秀長の娘・きくを妻に迎えた武将です。けれども結婚の年に大和豊臣家は絶え、輝元に実子が生まれて跡継ぎの座を失いました。関ヶ原では吉川広家にふさがれて一度も戦えず、それでも長府藩の祖となり、茶人として家光のそばで晩年を過ごしています。豊臣と毛利、二つの家の思惑に振り回されながら、最後は自分の家を残した人生でした。

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