医学天正記とは:曲直瀬玄朔が書いた戦国のカルテ ── 秀吉・秀次・輝元を診た医師は、なぜ常陸へ流されたのか

病床の豊臣秀次の脈をとる医師・曲直瀬玄朔(イメージ・イラスト)

秀吉は何の病で死んだのか。蒲生氏郷は本当に毒を盛られたのか。関ヶ原で寝返った小早川秀秋は、なぜ二年後に若くして死んだのか。こうした問いに、四百年前の「カルテ」が手がかりを残している。医師・曲直瀬玄朔(まなせ げんさく)がまとめた診療録『医学天正記(いがくてんしょうき)』である。天皇から大名、足軽や町の人びとまで、三十年にわたる治療の記録が書き留められている。

※この記事の絵は、当時の様子を描いたイメージ(イラスト)です。

この記事のポイント
  • 『医学天正記』は曲直瀬玄朔の診療記録。上下二巻、六十の病類に分けて三百四十五例を収める
  • 期間は天正四年から慶長十一年まで、約三十年
  • 患者には正親町天皇・後陽成天皇、信長・秀吉・秀次・秀頼、家康・秀忠、毛利輝元・蒲生氏郷らが並ぶ
  • 玄朔は「医聖」曲直瀬道三の甥で、のちに養子となり二代目道三を名のった
  • 文禄四年の秀次事件に巻き込まれ、常陸の佐竹義宣のもとへ預けられた
  • 秀次の失脚そのものに、玄朔の往診が関わっていたとする説もある
目次

医学天正記とは ── 戦国の権力者たちの「カルテ」

『医学天正記』は、曲直瀬玄朔が自ら手がけた治療の記録を、病気の種類ごとにまとめた書物である。上下二巻、六十の病類に分け、三百四十五の症例を収める。記録された期間は天正四年(1576)から慶長十一年(1606)まで、およそ三十年に及ぶ。

「天正」の名を冠しているが、中身は天正年間だけではない。信長が安土城を築きはじめたころから、関ヶ原を経て江戸幕府が開かれたあとまで、天下が三度持ち主を変えるあいだの記録である。

何より目を引くのは、患者の顔ぶれだ。

  • 皇室:正親町天皇、後陽成天皇、誠仁親王
  • 天下人とその一族:織田信長、豊臣秀吉、豊臣秀次、豊臣秀頼、茶々(淀殿)
  • 徳川家:徳川家康、徳川秀忠
  • 大名:毛利輝元、蒲生氏郷、加藤清正、藤堂高虎、小早川秀秋 など

そのうえで、公家や文人、さらには足軽や町の人びとまでが同じ書物に並んでいる。身分の上下を問わず、症状・見立て・処方・その後の経過を書き残している点で、日本に残る最も古いカルテのひとつとも言われる。

曲直瀬玄朔とは ── 「医聖」道三の後を継いだ男

曲直瀬玄朔は天文十八年(1549)、京に生まれた。幼いころに両親を失い、母の兄にあたる曲直瀬道三に引き取られて育てられた。

道三は、足利将軍や三好長慶、松永久秀、毛利元就、織田信長を診た当代随一の名医で、京に医学校「啓迪院(けいてきいん)」を開いたことでも知られる。のちに「日本医学中興の祖」と呼ばれる人物である。

道三の長男は若くして亡くなった。そこで道三は甥の玄朔を跡継ぎに選ぶ。天正九年(1581)、玄朔は道三の孫娘を妻に迎えて養嗣子となり、道三流の医学をすべて伝えられた。のちには自らも「道三」の名を継ぎ、二代目道三と呼ばれる。

天正十四年(1586)には医師として最高位の法印に叙され、秀吉に仕える医師団の中心的な一人となっていく。

秀吉の天下を支えた「番医」

秀吉は、自分や一族、有力大名が倒れると、複数の医師を交代で詰めさせる体制をとった。いわば当番制の主治医団である。玄朔はその中核にいた。

九州平定のさなかの天正十五年(1587)には、秀吉の命で毛利輝元の治療に向かっている。文禄元年(1592)、朝鮮出兵が始まると、玄朔は秀吉にしたがって肥前名護屋へ下り、さらに海を渡って朝鮮に在陣する輝元を治療したと伝わる。

三万ともいわれる毛利勢を率いる総大将が、戦地で病に伏せる。大名の体調は、そのまま戦の行方を左右した。医師を戦地まで送り込んだのは、秀吉にとって軍事上の判断でもあったのだろう。

名護屋では、蒲生氏郷も倒れている。文禄二年(1593)に発病した氏郷は、その後およそ三年患い、文禄四年(1595)に伏見で四十歳で亡くなった。『医学天正記』には、腹に水がたまり、顔や手足がむくんでいく様子が書き留められている。秀吉は九人の医師を交代で当たらせ、玄朔もその長老格の一人だった。

氏郷には、秀吉や石田三成に毒を盛られたという説がつきまとう。だが秀吉自身が医師団を組んで治療させていたこと、症状の経過が数年に及んでいることから、今日では病死と見るのが一般的だ(くわしくは戦国武将の病気と死因の記事で書いている)。

関白秀次の「喘」 ── 秀頼誕生のあとに

文禄二年(1593)ごろ、玄朔が繰り返し診ていたのが、関白・豊臣秀次である。

この年の八月、秀吉と茶々のあいだに拾(のちの秀頼)が生まれた。二年前に鶴松を三歳で失っていた秀吉にとって、待望の実子である。そしてこの前後から、秀次は喘息のような発作に悩まされるようになった。『医学天正記』では、秀次の症状は気のふさぎから来る「喘」として扱われている。

歴史学者の宮本義己氏は、玄朔の診療記録を読み解き、秀頼誕生後の秀次が心身ともに不安定だったことを指摘している。関白の座を約束されていた自分の立場が、実子の誕生で揺らぐ。その重圧が、体に現れていたという見方である。

ちなみに秀頼の母・茶々も、のちに気のふさぎによる症状で玄朔の診察を受けたと伝わる。こちらは秀吉の死後、徳川との駆け引きが続くなかでのことだという。秀頼をめぐって、押しのけられる側も、守る側も、同じ医師のもとで体の不調を訴えていたことになる。

そしてもうひとつ。文禄三年(1594)正月、養父の道三が八十八歳で世を去ったとき、玄朔はちょうど秀次の治療にあたっていたという。

秀次事件で常陸へ ── 「天脈拝診怠業事件」という説

文禄四年(1595)七月、秀次は謀反の疑いをかけられて高野山へ追われ、切腹した。八月には妻子三十九人が三条河原で処刑される。

この事件は、秀次の周囲にいた人びとにも及んだ。秀次の侍医だった玄朔も、秀次のブレーンの一人とみなされ、常陸国(いまの茨城県)の佐竹義宣のもとへ預けられた。事実上の流罪である。

▽ よく語られる話
秀次は秀頼が生まれて邪魔になったから、謀反の罪を着せられて殺された。玄朔は、秀次に近かったために巻き添えを食っただけだ。
▼ こういう説もあります
宮本義己氏は、玄朔の往診そのものが、秀次失脚の引き金のひとつになった可能性を指摘している。後陽成天皇が病に伏せていたとき、秀次は天皇の脈をとるべき玄朔を自分のもとへ呼び寄せた。天皇の診察を後回しにさせたことが、関白の権限を私的に使ったものと受け取られたのではないか、という見方である。宮本氏はこれを「天脈拝診怠業事件」と呼んだ。あくまで一つの仮説だが、秀次事件を「医師のカルテ」から読み直す試みとして注目されている。

秀次事件の原因については、秀頼への溺愛、奉行衆との政争など、いくつもの見方がある(秀次事件をわかりやすく解説)。天脈拝診の一件がどこまで決定的だったかはわからない。ただ、医師が誰を先に診るかさえ、政治の問題になり得たことは、この時代の権力の張りつめ方をよく示している。

赦され、徳川の医師へ

玄朔の謹慎は、長くは続かなかった。

赦免の時期には二つの伝え方がある。ひとつは、慶長二年から三年(1597〜98)ごろ、秀頼の番医として復帰したというもの。もうひとつは、慶長三年、後陽成天皇が重い病に倒れた際、朝廷が勅命によって玄朔の罪を許し、京へ呼び戻したというものである。後者では、玄朔は天皇を快復させ、黄金の花瓶と白銀千両という破格の褒美を受けたと伝わる。

秀次のために天皇の診察を怠ったと疑われた医師が、今度は天皇の命を救うために呼び戻される。事実だとすれば、なんとも皮肉なめぐり合わせである。

関ヶ原のあと、玄朔は新しい天下人のもとでも重用された。慶長十三年(1608)、徳川秀忠の治療のために江戸へ招かれ、屋敷を与えられる。以後は京と江戸を行き来し、朝廷と幕府の両方に仕える医師となった。

門下からは岡本玄冶、野間玄琢らの名医が出ている。玄朔は寛永八年(1632年1月)、八十三歳で亡くなった。墓は東京・広尾の祥雲寺に残る。

医学天正記は、どこで読めるのか

『医学天正記』は江戸時代に版本として刊行され、写本・版本がいくつもの図書館に伝わっている。京都大学貴重資料デジタルアーカイブ、早稲田大学の古典籍総合データベース、慶應義塾大学のデジタルコレクションなどで、実物の画像を無料で見ることができる。

もっとも本文は漢文で、病名や処方も漢方医学の用語で書かれている。読み解くには専門的な知識が要る。武将の病名についても、現代医学に当てはめた見立ては研究者によって異なることは頭に置いておきたい。

よくある質問

Q. 医学天正記は誰が書いたのですか?
A. 曲直瀬玄朔(二代目曲直瀬道三)です。初代の曲直瀬道三と混同されることがありますが、医学天正記は玄朔自身の治療記録です。

Q. 「日本最古のカルテ」と言われるのはなぜですか?
A. 患者名・症状・診断・処方・経過を具体的に書き残した診療録としては、日本に現存するもっとも古いものの一つだからです。ただし「最古」の定義はさまざまで、同じ玄朔の『玄朔道三配剤録』など、関連する記録もあります。

Q. 曲直瀬道三と曲直瀬玄朔は同じ人ですか?
A. 別人です。玄朔は道三の甥で、のちに養子となり「道三」の名を継ぎました。そのため「二代目道三」とも呼ばれます。初代道三については曲直瀬道三とはで詳しく書いています。

Q. 秀吉の病気も書かれていますか?
A. 秀吉も患者として記録に登場します。ただし秀吉の最期の病名については、今も諸説あり確定していません。詳しくは戦国武将の病気と死因をご覧ください。

Q. 番組を見逃しました。再放送や配信はありますか?
A. NHKの番組は、再放送やNHKプラス・NHKオンデマンドで配信される場合があります。最新の情報は番組の公式サイトで確認してください。

まとめ

『医学天正記』に並ぶのは、教科書では「天下人」「名将」として描かれる人びとの、腹の張り、むくみ、咳、黄疸である。

そしてそれを書き留めた曲直瀬玄朔は、権力者の体を預かったがゆえに、権力の争いにも巻き込まれた。秀次の侍医として流され、天皇の病で呼び戻され、最後は徳川の医師として生涯を終える。戦国から江戸へと天下が移るあいだ、玄朔はずっと、その時々の権力者の枕もとにいた。

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