戦国時代の京に、将軍も、天下を争う武将も、天皇も、同じ一人の医師を頼った時代があった。曲直瀬道三(まなせ どうさん)である。足利義輝、三好長慶、松永久秀、毛利元就、織田信長――敵味方に分かれて争った者たちが、そろって道三の診察を受けている。そして道三は、京に医学校を開き、数多くの弟子を育てた。のちに「日本医学中興の祖」と呼ばれる人物である。
※この記事の絵は、当時の様子を描いたイメージ(イラスト)です。
- 永正四年(1507)、京に生まれる。生まれてまもなく両親を相次いで失った
- 相国寺で学び、足利学校へ。そこで名医・田代三喜と出会い、医の道へ進んだ
- 京に戻ると、将軍足利義輝の侍医に。三好長慶・松永久秀・毛利元就・織田信長らも診た
- 京に医学校「啓迪院」を開き、主著『啓迪集』を正親町天皇に献上
- 信長からは、東大寺正倉院の名香蘭奢待を分け与えられた
- 晩年にはキリスト教の洗礼を受けたと伝わる。文禄三年(1594)、八十八歳で死去
- 後を継いだのは甥の曲直瀬玄朔。『医学天正記』を書いた「二代目道三」である
両親を知らずに育った少年
曲直瀬道三は永正四年(1507)、京に生まれた。父は近江の名門・佐々木氏の流れをくむ堀部左兵衛親真と伝わる。
ところが、生まれた翌日から両親が相次いで亡くなったという。道三は親の顔を知らずに育った。
永正十三年(1516)、十歳で京の相国寺に入り、詩文や書を学んだ。「曲直瀬」という珍しい姓を名のるようになったのも、このころのことである。
足利学校で、医の道に出会う
享禄元年(1528)、二十二歳の道三は関東へ下り、下野の足利学校で学んだ。足利学校は、当時「坂東の大学」とも呼ばれた学問の拠点である。
ここで道三の人生を変える出会いがあった。明で医学を学んで帰国した名医・田代三喜である。道三は三喜に弟子入りし、当時の中国で主流だった新しい医学(李朱医学)を身につけた。
それまでの日本の医療は、古い医書の処方をなぞることが多かった。三喜から学んだのは、患者一人ひとりの症状を見きわめ、それに合わせて薬を組み立てるという考え方だった。
将軍の侍医、そして天下人たちの主治医へ
天文十五年(1546)ごろ、道三は京に戻って還俗し、医業に専念する。ほどなく将軍・足利義藤(のちの義輝)を診察し、侍医に迎えられた。
その後、道三を頼った顔ぶれは、そのまま戦国の京の権力者の名簿になる。
- 細川晴元・三好長慶:京の支配をめぐって争った二人
- 松永久秀:道三は久秀に養生の書『黄素妙論』を伝授している
- 毛利元就:永禄五年(1562)以降、たびたび中国地方へ下って治療した
- 正親町天皇:永禄三年(1560)、はじめて宮中に参じて天皇の脈をとった
- 織田信長:天正二年(1574)ごろ診察し、信長から名香・蘭奢待を分け与えられた
将軍義輝と、その義輝と京を争った細川晴元・三好長慶。義輝はのちに三好勢に討たれることになる。敵対する者どうしが、同じ医師に体を預けていた。道三は特定の陣営に属さず、腕一本で信頼を得ていたことがうかがえる。
月山富田城の陣中で ── 毛利元就と『雲陣夜話』
とくに深い関わりを持ったのが、中国地方の雄・毛利元就である。
永禄九年(1566)、元就は尼子氏の本拠・月山富田城を囲んでいた。その陣中に道三は赴き、七十歳の元就を診ている。このとき元就のために書いたとされるのが『雲陣夜話』で、陣中での養生の心得を説いたものと伝わる。
道三の医学は、こうして中国地方にも広まった。のちに天正十六年(1588)、元就の孫・毛利輝元が上洛した際には、道三が自邸で輝元をもてなしている。毛利家と曲直瀬家のつながりは、祖父の代から孫の代まで続いた。輝元の治療には、やがて道三の後継者・玄朔があたることになる。
啓迪院と『啓迪集』 ── 医学を「教える」しくみ
道三の功績は、名医であったことだけではない。京に「啓迪院(けいてきいん)」という医学校を開き、弟子を体系的に育てたことが大きい。
道三は、学んだ医学を『啓迪集』という医書にまとめた。症状の見きわめ方から治療法までを整理した、道三医学の集大成である。天正二年(1574)、道三はこれを正親町天皇に献上し、「翠竹院(すいちくいん)」の号を賜った。
ほかにも『薬性能毒』『百腹図説』など多くの著作を残し、門下からは多数の医師が巣立った。道三の系統の医学は「道三流」と呼ばれ、江戸時代の漢方医学の主流となっていく。
晩年、キリスト教の洗礼を受ける
道三の晩年には、意外な出来事が伝わる。
天正十二年(1584)ごろ、道三はイエズス会の宣教師オルガンティノを診察した。それがきっかけでキリスト教に関心を持ち、洗礼を受けて「ベルショール」という洗礼名を得たという。当時、キリスト教の宣教師たちは西洋の医術ももたらしており、医師である道三が関心を寄せたのも不思議ではない。
天正二十年(1592)には後陽成天皇から橘の姓と「今大路」の家号を賜った。そして文禄三年(1594)正月四日、八十八歳で亡くなった。京の十念寺に墓が残る。
後を継いだ玄朔 ── 「二代目道三」
道三の長男は若くして亡くなっていた。道三が跡継ぎに選んだのは、妹の子、つまり甥の玄朔である。
玄朔もまた幼くして両親を失い、道三に引き取られて育った。天正九年(1581)、道三の孫娘を妻に迎えて養嗣子となり、のちに「道三」の名を継ぐ。「曲直瀬道三」と呼ばれる人物は、実は二人いるのである。
初代道三が亡くなったとき、玄朔は関白・豊臣秀次の治療にあたっていた。その翌年、秀次事件に巻き込まれて常陸へ流されることになる。玄朔の波乱の生涯と、彼が残した診療録については医学天正記とは:曲直瀬玄朔が書いた戦国のカルテでくわしく書いた。
よくある質問
Q. 曲直瀬道三は何をした人ですか?
A. 戦国時代の京で活躍した医師です。将軍足利義輝や毛利元就、織田信長らを診察し、医学校「啓迪院」を開いて多くの弟子を育てたことから、「日本医学中興の祖」と呼ばれます。
Q. 曲直瀬道三と斎藤道三は関係がありますか?
A. 関係はありません。同じ時代に活躍した「道三」ですが、斎藤道三は美濃の戦国大名、曲直瀬道三は京の医師で、まったくの別人です。
Q. 曲直瀬道三と曲直瀬玄朔の違いは?
A. 玄朔は道三の甥で、のちに養子となり「道三」の名を継ぎました。『医学天正記』を書いたのは玄朔(二代目道三)です。
Q. 大河ドラマ『麒麟がくる』の望月東庵のモデルですか?
A. 望月東庵はドラマのオリジナルの人物ですが、戦国の京で権力者を診た名医という設定から、曲直瀬道三がモデルの一人とされることがあります。
Q. 曲直瀬道三のお墓はどこにありますか?
A. 京都の十念寺に墓があります。
まとめ
両親を知らずに育った少年が、寺で学び、関東で師に出会い、京に戻って将軍の侍医となる。そして敵味方を問わず戦国の権力者たちを診て、医学を「教える」しくみまでつくった。
戦国武将たちが天下を争ったその裏で、その体を支えていたのは道三と、その弟子たちだった。そして道三の名と医学は、玄朔へ、さらに江戸の医師たちへと受け継がれていった。
「曲直瀬(まなせ)」という名字の由来
道三が自ら名づけた姓と、子孫・今大路家、東京の道三堀。
戦国時代の医者はどれくらい稼いだのか
白銀千両の褒美と、七百石の知行。医者という職業のしくみ。
医学天正記とは:曲直瀬玄朔が書いた戦国のカルテ
道三の後を継いだ玄朔と、秀吉・秀次・輝元のカルテ。
戦国武将の病気と死因
蒲生氏郷の腹水、小早川秀秋の「酒疸」、秀吉の最期。
松永久秀は本当に「三悪」を働いたのか
道三から養生の書を授けられた武将。
月山富田城跡
道三が毛利元就を診た、尼子攻めの陣。

