関白とは何か:天皇に上がる文書を先に見る権利と、七百年動かなかった五つの家

烏帽子と直衣の公家たちが向かい合って議論する(イメージ・イラスト)

関白(かんぱく)は、成人した天皇を補佐して政務にあたる役職である。天皇が幼いときに代わって政を執る摂政とは、そこが違う。決めるのはあくまで天皇で、関白は決裁者ではない。ではどこに実権があったかというと、「内覧」にある。太政官から天皇に上がってくる文書を、天皇より先に見る権利のことだ。決めるのは天皇だが、天皇の目に入る前に、すべてが関白を通る。関白という役の値打ちは、この一点に集まっている。

※この記事の絵は、当時の様子を描いたイメージ(イラスト)です。

この記事のポイント
  • 成人した天皇を補佐する役職。決裁者は天皇のまま
  • 摂政は天皇が幼少・病弱のときに大権を代行する役。そこが関白と違う
  • 関白の実権は内覧=天皇に上がる文書を先に見る権利にある
  • 語源は中国前漢の故事で、「関(あずか)り白(もう)す」から
  • 仁和三年の詔書が「関り白す」の語を使った最初とされる
  • 鎌倉時代以降は五摂家(近衛・九条・二条・一条・鷹司)が交代で継いだ
  • 武家で関白になったのは豊臣秀吉と豊臣秀次の二人だけ
  • 関白を子弟に譲った前関白が太閤。慶応三年の王政復古で廃止された
目次

関白とは、何をする役か

律令の官職表を見ても、関白は出てこない。あとから必要に応じて作られた令外官だからである。

仕事は、太政官から上がってくる意見を天皇に奏上すること。そして天皇の意思を下へ伝えること。上と下のあいだに立つ役である。敬称は「殿下」。

位としては、太政大臣より上か下かという議論が起きる。官位の表の上では太政大臣が最高位だが、実際の重みでは関白が上に扱われた。位の高さと、力の強さは別物だった。秀吉が官位を一段ずつ上がっていったのも、この二つを両方そろえるためである。

「関り白す」── 言葉の由来

この言葉は日本で生まれたものではない。

中国前漢の宣帝が、実力者の霍光(かくこう)に国政を「関り白す」=関与して申し上げさせた、という故事からきている。日本の朝廷が、その表現を借りて役職の名にした。

いまの言葉に直せば、国政顧問官といったところである。「白す」は、目下から目上へ申し上げるという意味だ。どれだけ力を持っていても、形のうえではあくまで天皇に申し上げる立場である。この建前が、のちに大きな意味を持つ。秀吉が京で御所を直し、公家に知行を配ったのも、申し上げる側として認めてもらうための下ごしらえだった。

摂政との違いは、天皇が大人かどうか

摂政と関白は、よく並べて語られる。違いは単純である。

▶ 摂政と関白
  • 摂政 天皇が幼少・病弱などのとき、大権を全面的に代行する
  • 関白 天皇が成人しているとき、補佐する。決裁するのは天皇

同じ人物が、天皇の成長にあわせて摂政から関白へ移ることもあった。秀吉が関白を秀次に譲ったのは、これとはまったく別の事情による。

天皇が成人したから摂政をやめる。ただし手放すわけにはいかない。そこで関白という役に移る。藤原忠平が朱雀天皇の成人を機に摂政から関白に転じたのが、そのはっきりした最初の例とされる。

役の名は変わるが、そばにいることは変わらない。摂政から関白への移行は、権力を返す手続きではなく、持ち方を変える手続きだった。

関白の実権は「内覧」にある

ここがこの役職のいちばん面白いところである。

内覧(ないらん)とは、太政官から天皇へ上奏される文書を、天皇より先に見る権限のことをいう。

形のうえでは、関白は何も決めていない。決裁するのは天皇である。だが天皇の机に載る前に、文書はすべて関白の手を通る。何を見せ、何を止め、どう添えて出すか。そこを握っている人間が、実際には政を動かす。

▽ よく語られる話
関白は天皇に次ぐ絶対的な権力者で、思うままに政治を動かした。
▼ 史実ではこうです
建前は逆で、関白はあくまで「申し上げる」立場である。決めるのは天皇だ。にもかかわらず力を持てたのは、決裁の前にある情報の通り道を押さえていたからである。決定権より、決定に至る前を握るほうが強い。藤原道長が摂政・関白の職そのものより内覧の地位に長く留まったのも、実務の重みがそちらにあったからだと説明される。

役職の名前だけを見ていると、この構造は見えない。関白の値打ちは、肩書きではなく通り道にあった。近衛前久のように、京を離れていた関白が力を失ったのも、通り道から外れたからである。

最初の関白は誰か

「最初の関白」には、いくつかの数え方がある。

元慶八年、光孝天皇が藤原基経に国政の権限を与える詔を出した。これを実質的な始まりとする見方が有力である。ただしこのとき、「関白」という語そのものは使われていない。

語が出てくるのは仁和三年、宇多天皇の詔書で、ここに「関り白す」の文言が入る。これが言葉としての初例とされる。

そして先に触れたとおり、天皇の成人を機に摂政から関白へ移った確かな例は、藤原忠平である。役目が先にあり、名前があとから追いついた。太閤検地という呼び名が実態より後に定着したのと、どこか似ている。関白という役は、そういう成り立ちをしている。

誰が関白になれたのか ── 五摂家

はじめは天皇の外戚が就く役だった。だが院政が始まると外戚が就く例は珍しくなり、特定の家が交代で継いでいく形になる。

鎌倉時代に九条家から二条家と一条家が、近衛家から鷹司家が分かれ、近衛・九条・二条・一条・鷹司の五家がそろった。これが五摂家である。

以後、関白はこの五家のあいだで回されることになる。順番を待つ家と、譲りたくない家がいる。だから関白の交代は、しばしば家どうしの争いになった。天正十三年に起きた関白相論も、その一例である。

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武家で関白になったのは、二人だけ

七百年ほどのあいだ、関白はこの五家の外から出たことがなかった。その枠を破ったのが豊臣秀吉である。

秀吉は近衛前久の猶子となる形で藤原氏に連なり、関白に就いた。日本で最初の武家関白である。さらに翌年、豊臣という姓を新たに賜った。これによって、藤原氏でも五摂家でもない関白が生まれた。

二人目は甥の豊臣秀次で、秀吉から関白職と家督を継いだ。ただし実権は太閤である秀吉の手にあり、のちに失脚して切腹する。関白のまま死を命じられた人物は、歴史上この人しかいない。

秀吉の死後、関白は再び五摂家の役に戻った。外から入ってきたのは、結局この二人だけである。

太閤とは何か

「太閤(たいこう)」は、関白の職を子や弟に譲った前関白を指す呼び名である。出家するとさらに禅閤と呼ばれた。

つまり太閤とは本来、特定の個人を指す言葉ではない。太閤検地という言い方が残っているために、いまでは秀吉の代名詞のようになっているが、制度としては「関白を譲った人」という一般名詞だった。

そして、ここが秀吉のやり方のうまいところでもある。関白を秀次に譲って自分は太閤になる。職は渡したが、力は渡していない。形のうえでは隠居した前任者でありながら、実際の決定は太閤のもとにあった。

天正十九年に弟の秀長を失ったあと、秀吉はこの形を選んだ。補佐してくれる者がいなくなったとき、この人は職を手放すことで、かえって自由になろうとしたようにも見える。

関白は、いつ無くなったのか

秀吉と秀次のあと、関白は五摂家の役に戻り、江戸時代を通じて続いた。

終わりは慶応三年十二月九日の王政復古の大号令である。豊臣の時代から数えて、さらに二百七十年あとのことだ。このとき摂政・関白・征夷大将軍の三つが、まとめて廃止された。最後の関白は二条斉敬だった。

将軍と関白が同じ日に消えたことには、意味がある。武家の頂点と朝廷の頂点、どちらも天皇の下にあった役職である。その両方を外して、天皇が直接政を執る形に戻す。それが王政復古という言葉の中身だった。

まとめ

関白という役は、名前のわりに決定権を持っていない。決めるのは天皇で、関白は申し上げる側である。

それでも七百年のあいだ、この役が権力の中心にあり続けた。理由は内覧にある。天皇に上がる文書を先に見る。何を見せ、何を止めるかを握る。決定権そのものより、決定の手前を押さえるほうが強いということを、この役職は示している。

秀吉が征夷大将軍ではなく関白を選んだのも、たぶん同じ理屈だった。将軍は武家を従える役である。関白は、朝廷を含めたすべての上申が通る場所である。武家も公家も、どちらも自分の下に置きたいなら、座るべき席は決まっていた。

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