秀吉と秀次の関係を一言で言えば叔父と甥です。秀次の母は秀吉の姉・とも。血のつながりははっきりしています。ところが「秀吉の養子」という広く知られた説明のほうは、意外にはっきりしません。養子縁組を示す明証は確認されていないのです。そして秀吉には、秀次のほかにも養子や猶子が大勢いました。秀次は唯一の後継者だったのではなく、候補のひとりでした。
- 秀次は秀吉の姉・ともの子。甥にあたる
- 「秀吉の養子」とされるが、縁組の明証は確認されていない
- 秀次が実際に養子に出されたのは宮部家と三好家で、秀吉の家ではない
- 秀吉には信長の四男や家康の次男まで、養子・猶子が大勢いた
- 秀次の弟二人も豊臣の一門として配られていた
まず血縁 ― 秀吉の姉の子
秀次の実父は三好吉房、実母は瑞竜院日秀尼、すなわち秀吉の姉の「とも」です。秀次は永禄十一年(一五六八)の生まれで、秀吉から見れば甥にあたります。
秀吉に長く実子がいなかったことは知られています。姉の子は、その空白を埋められる数少ない血縁でした。
「秀吉の養子」だったのか
この違いは小さく見えて重いものです。養子でないなら、秀次の立場は制度に支えられていないことになります。秀吉の意思ひとつで動く位置だった、ということです。
秀次は二度、他家へ出されている
はっきりしているのは、秀次が秀吉以外の家には確かに養子に出されていることです。
一度目は元亀二年ごろ、浅井家臣の宮部継潤のもとへ。調略のための差し出しで、実質は人質でした。二度目は天正十年、阿波の三好康長のもとへ。長宗我部を牽制するための縁組です。
つまり秀吉にとって甥は、まず外へ配る駒でした。手元に置いて跡取りに育てた、という関係ではありません。
秀吉には、養子と猶子が大勢いた
ここが見落とされがちな点です。秀吉が迎えた養子・猶子は秀次だけではありません。
- 羽柴秀勝(於次) 織田信長の四男。天正十三年十二月に病死
- 豊臣秀勝(小吉) 秀次の弟。於次秀勝の死の直後に養子になったと見られる
- 豊臣秀保 秀次の弟。豊臣秀長の婿養子となった
- 宇喜多秀家 備前の大名・宇喜多直家の子。猶子として遇された
- 結城秀康 徳川家康の次男
- 小早川秀秋 正室ねねの親族
信長の四男も、家康の次男もいます。秀吉は血縁と同盟の両方から、後継になりうる少年を集めていたのです。秀次はその中の一人でした。
三兄弟が、そろって配られた
もう一つ目を引くのが、秀次の兄弟の扱いです。
長男の秀次は宮部家を経て三好家へ。次男の小吉秀勝は秀吉の養子に。三男の秀保は秀長の婿養子に。姉の子三人が、それぞれ別の家に配られています。
これは長宗我部が弟たちに他家を継がせたやり方と、発想が重なります。血族を器に流し込んで、その家ごと取り込む。豊臣も同じ手を使っていました。
叱る立場にはあった
関係を示す具体的な出来事として残っているのが、白山林の敗戦のあとに秀吉が送った折檻状です。天正十二年、秀次は数え十七歳でした。
養子かどうかはともかく、秀吉が甥を叱り、教え、扱う立場にあったことはこの一件からわかります。そして叱られた翌年、秀次は近江八幡で四十三万石を与えられています。
順番が回り、そして消えた
候補が大勢いたということは、順番が動くということでもあります。
天正十三年に於次秀勝が病死。天正十九年に鶴松が三歳で死去。このとき秀次に順番が回ってきました。家督を譲られ、百万石と関白を得ます。
ところが文禄二年に秀頼が生まれます。そして文禄元年には小吉秀勝が朝鮮の陣中で病死し、文禄四年には秀保も世を去りました。候補が次々に消え、最後に実子が生まれた。この順番の変化が、そのまま秀次事件につながります。
まとめ
秀吉と秀次は叔父と甥です。養子だったとする説明は広く行われていますが、縁組の明証は確認されていません。秀次が実際に養子に出されたのは宮部家と三好家でした。
そして秀吉には、信長の子から家康の子まで、養子・猶子が大勢いました。秀次は唯一の後継者ではなく、候補のひとりだったのです。順番が回ってきたのも、消えたのも、本人の意思の外側で起きたことでした。

