- 秀吉の弟は、はじめ「木下小一郎長秀」と名乗っていた。通称が小一郎、諱が長秀である
- 織田家中には丹羽長秀という宿老がいて、諱が完全に重なっていた
- 天正八年(1580)の文書には、本人の署名で「長秀」と残っている
- 「秀長」への改名は天正十二年(1584)の六月から九月のあいだ。小牧・長久手の直後にあたる
- 改名の理由を書いた史料はない。いくつかの説があるだけである
豊臣秀長という名前は、じつは後半生のものである。若い頃の彼は「長秀」といった。秀長ではなく、長秀。字が逆である。
そして厄介なことに、同じ織田家中に丹羽長秀という重臣がいた。諱がまるごと重なっていたのである。この記事では、その名前がいつ、どういう形で「秀長」に変わったのかを、残っている文書からたどってみたい。

大和郡山城。秀長がのちに居城とした城である
「木下小一郎長秀」という名前
戦国の武士の名前は、三つの部分でできている。姓、通称、諱である。
秀吉の弟の場合、通説では幼名を小竹(こちく)といい、のちに小一郎と改めた。兄に仕官したときには木下姓を名乗り、諱を長秀としている。つまり「木下小一郎長秀」である。
日常で呼ばれるのは通称のほうだから、周囲は彼を「小一郎」と呼んだ。秀吉が黒田孝高に宛てた手紙にも「小一郎」の名で出てくる。信頼できる人間の代名詞として使われている。
やがて兄が木下から羽柴へ改姓すると、弟も羽柴姓になる。「羽柴小一郎長秀」。これが、彼が長く名乗っていた名前である。
織田家には、もう一人の「長秀」がいた
問題は、この「長秀」という諱にある。
織田信長の家中には、すでに丹羽長秀という重臣がいた。「米五郎左」と呼ばれ、安土城の普請を差配した宿老中の宿老である。地位も年齢も、当時の秀吉の弟とは比べものにならない。
諱は、本来そうそう呼ばれるものではない。だが文書には書かれる。「長秀」と署名された書状が二種類の人物から出てくる状況は、当時の織田家において決して整理された状態ではなかっただろう。
「羽柴」という姓が、ややこしさを増幅した
さらに事情を複雑にしているのが、「羽柴」という姓そのものである。
羽柴は、丹羽長秀の「羽」と柴田勝家の「柴」から一字ずつ取ったと伝わる。織田家の二人の重鎮にあやかった、という説明である。
ただしこれは、同時代の史料で明言されたものではない。後世の解釈だとする見方もある。広く知られてはいるが、確定した話ではない点は押さえておきたい。
とはいえ、もしこの説のとおりだとすると、事態はいっそう込み入る。丹羽長秀から「羽」をもらった家の人間が、丹羽長秀と同じ「長秀」を名乗っていることになるからだ。
天正八年、まだ「長秀」だった証拠が残っている
ここからは、現物の話になる。
兵庫県養父市に、秀長が出した書状が伝わっている。天正八年(1580)六月二十五日付で、但馬の「なんば」の弥兵衛という人物に鮎漁を許した免許状である。
面白いのは、この文書の書かれ方だ。本文は秘書役の家臣が書き、本人が書いたのは署名と花押だけ。そしてその署名が「長秀」である。
鮎を獲る許可という、きわめて日常的な文書に、本人の筆で「長秀」と残っている。天正八年の時点では、まだ長秀だった。これは動かない。
ちなみにこの書状は近年になって初めて一般に公開されたもので、養父市の関宮地域局分館で展示されたと報じられている。
改名は、天正十二年の夏から秋のあいだに起きた
では、いつ「秀長」になったのか。
研究では、かなり狭い範囲まで絞り込まれている。天正十二年(1584)六月八日から九月十二日までのあいだである。この前後の文書で名乗りが切り替わることから、そう判断されている。
この時期が何を意味するか。小牧・長久手の戦いの、まさに直後である。
四月九日に長久手で羽柴方の別動隊が壊滅し、池田恒興・元助父子と森長可が討死した。戦場では家康が勝っている。だが秀吉は戦い続けることを選ばず、十一月に織田信雄と単独で講和して、戦役そのものを終わらせた。
その夏から秋にかけて、弟の名前が変わっている。
なぜ「秀長」なのか ── 三つの見方
ここが本題である。そして、ここに確実な答えはない。「これこれの理由で改めた」と書いた史料が残っていないからである。
挙げられている説を並べておきたい。
ひとつ、丹羽長秀との重複を避けたという見方。もっとも素直な説明である。同じ織田家中に同じ諱の重臣がいるのは、実務上も具合が悪い。
ふたつ、兄の一字を上に戴く形へ改めたという見方。小牧・長久手を経て、秀吉は信長の実質的な後継者としての地位を固めた。その兄の「秀」を、名前の頭に置く。研究者からもこの見方が示されている。
みっつ、その両方が働いたという見方。ただし時系列で言えば、丹羽長秀が世を去るのは改名の翌年、天正十三年(1585)である。秀長が名を改めたとき、丹羽長秀はまだ健在だった。「同じ名の相手がいなくなったから改めた」という筋道ではない、ということは押さえておきたい。
いずれにせよ推測である。断定はできない。わかっているのは、天正八年には長秀で、天正十二年の秋には秀長になっていた、という二つの事実だけだ。
羽柴一門は、みな「秀」を上に置いていた
ひとつ、傍証になりそうな観察がある。
羽柴家の一門衆の名前を並べてみると、そろって「秀」が上に来ている。
- 秀次(秀吉の甥)… 治兵衛 → 宮部吉継 → 三好信吉 → 羽柴秀次
- 秀勝(秀吉の養子)… 於次丸秀勝
- 秀保(秀長の養子)… 羽柴秀保
秀次にいたっては、宮部氏、三好氏と養子に出されるたびに名前ごと変わっている。戦国の名前は、その人が誰の家に属しているかを示す看板だった。
その一門のなかで、弟の長秀だけが「秀」を下に置いていた。この一人だけ形が違う、という状態が解消されるのが天正十二年である。そう並べると、改名は個人の都合というより、羽柴家という家の形が整っていく過程の一部に見えてくる。
この年、秀長は何をしていたのか
名前が変わった年、本人は名前どころではなかったはずである。
小牧・長久手の戦役で、秀長は伊勢方面を担当し、松ヶ島城を落としている。さらに織田信雄との講和交渉では、秀吉の名代として直接おもむいている。
前線で城を落とし、外交の席にも座る。この兄弟の分業がもっともよく機能していた時期のひとつである。戦って、まとめて、そして名前が変わった年だった。
よくある疑問
Q. 「豊臣秀長」と名乗ったのはいつからですか?
A. 豊臣姓は、兄の秀吉が関白となったあとに下賜されたものです。それ以前は羽柴姓ですので、「羽柴秀長」の期間のほうが長いことになります。
Q. 丹羽長秀と血縁があったのですか?
A. ありません。諱が同じだっただけです。丹羽長秀は織田家の宿老で、秀吉の弟とは家も出自もまったく別です。
Q. 「羽柴」は本当に丹羽と柴田から取ったのですか?
A. そう伝わっていますが、同時代の史料で明言されたものではなく、後世の解釈とする見方もあります。広く知られた説、という位置づけで受け取るのが安全です。
Q. 改名の正確な日付はわかりますか?
A. わかりません。文書の名乗りが切り替わる範囲から、天正十二年六月八日から九月十二日のあいだと絞られているのが現状です。
イラストで見る武将・姫たち
この記事に登場する人物は、姉妹サイト「日本の武将ガイド」でイラストとあわせてご覧いただけます。
- 豊臣秀長(小一郎) … 兄を支え続けた弟。この年に名が「秀長」となる
- 丹羽長秀 … 「米五郎左」と呼ばれた織田家の宿老。羽柴の「羽」の由来ともされる
- 豊臣秀吉 … 弟に自分の一字を与えた兄
- 柴田勝家 … 羽柴の「柴」の由来ともされる織田家筆頭家老
- 織田信長 … 二人の「長秀」がともに仕えた主君
- 豊臣兄弟!第34〜35回 史実解説 … 小牧・長久手はなぜ痛み分けに終わったのか
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- 小牧・長久手の戦いはどっちが勝った? … 秀吉と家康 唯一の直接対決
まとめ
「秀長」という名前は、生まれたときからのものではない。四十を過ぎてから手に入れた名前である。
それまでの彼は長秀だった。織田家の宿老と同じ諱を持ち、日常では小一郎と呼ばれ、鮎漁の許可状にまで自分の手で「長秀」と署名していた。
その名が「秀長」に変わるのは、兄が家康と戦い、そして戦わずに勝った年である。字がひっくり返って、兄の一字が上に来た。
理由を書き残した史料はない。だが名前というものが、その人がどの家のどの位置にいるかを示す看板だったことを思えば、この一字の入れ替えは、羽柴家がもう織田家の一部ではなくなったことの表明だったのかもしれない。あくまで、かもしれない、である。

