中津山藩(仙台藩支藩)/伊達家3万石:伊達邦賢 江戸城登城中に旗本を斬ったため改易となった中津山藩【幕末維新写真館】

中津山藩(仙台藩支藩)/場所・アクセス・地図 伊達家3万石:伊達邦賢 江戸城登城中に旗本を斬ったため改易となった中津山藩【幕末維新写真館】

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【藩名】
中津山藩(仙台藩支藩)

【説明】
翌元禄9年(1696年)1月11日に六本木に藩邸が落成し、10月28日に中津山を藩庁とすることが公的に確認されると、次第に中津山藩は藩としての体裁を整えていった。

ところが元禄12年(1699年)9月9日、江戸城に登城する途上で、供回りの者が行列を横切った旗本「岡孝常」と刃傷沙汰に及び手傷を負わせたため、9月26日に謹慎を命じられた後、改易に追い込まれた。「伊達村和」の身柄は兄「伊達綱村」預かりとなり、中津山藩の所領は仙台藩に戻され、六本木の藩邸も仙台藩の所有地となった。

中津山藩の改易後、村和は宮城郡野村にて20年間の逼塞を余儀なくされ、赦免から3年後の享保7年(1722年)に死去する。同年、村和の長男「伊達村詮」が柴田郡川崎要害を拝領して知行2千石を与えられ、以後幕末に至るまで同地を所領とした。

最後の川崎領主である第7代当主「伊達邦賢」は、慶応4年(1868年)の「戊辰戦争」では浜通りおよび笹谷口に出兵した。敗戦後、所領を失うと小学校の教員になったが、明治10年(1877年)に西南戦争が勃発すると、子の基煕・煕信と共に旧家臣団を率いて西郷討伐に従軍した。

【場所・アクセス・地図】






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