- 豊臣秀長の正室は、のちに慈雲院(智雲院)と呼ばれた女性で、『豊臣兄弟!』の慶(吉岡里帆)のモデルです
- 側室と伝わるのは、大和の国人・秋篠氏の娘で、奈良の法華寺の尼だったという興俊尼(お藤、光秀尼)です。秀長に見初められて娘のおきくを産み、天正15年(1587)ごろ郡山城に迎えられたと伝わります
- ただしこの話は江戸時代の奈良の名所記に見えるもので、真偽ははっきりしません。おきくの母は正室の慈雲院だったとする見方もあります
- 十人を超える側室がいたとされる秀吉にくらべ、秀長の女性関係はごく少なく、記録もわずかです。秀長の死後、興俊尼は奈良の興福院を再興した尼として知られています
秀吉には茶々をはじめ十人を超える側室がいたとされますが、弟の秀長はどうだったのでしょうか。結論からいうと、秀長にも側室がいたと伝わりますが、名前がわかるのはほぼ一人だけで、その話も確かとは言いきれません。『豊臣兄弟!』では秀長の妻として慶(吉岡里帆)だけが描かれています。この記事では、史料と伝承から、秀長の妻と側室を整理します。秀吉の側室については秀吉の側室は何人いたのかでまとめています。
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秀長の妻と側室を一覧で
史料や伝承に見える女性を表にまとめます(慶(ちか)とは)。
| 名前 | 出自 | 子ども | 確かさ | |
|---|---|---|---|---|
| 正室 | 慈雲院(智雲院) | 秀長の家臣・神戸氏の娘とする説がある | 娘たちの母とみられる | 京都の寺の記録などに名が見える |
| 側室 | 興俊尼(お藤、光秀尼) | 大和の国人・秋篠氏の娘。もと法華寺の尼と伝わる | 娘のおきくを産んだと伝わる | 江戸時代の名所記などの伝承で、真偽は不明 |
| 側室? | 名は伝わらない | 不明 | 不明 | いたとする説があるのみ |
正室・慈雲院 ─ ドラマの慶のモデル
秀長の正室は、秀長が亡くなったあとに髪を下ろし、慈雲院(智雲院とも)と呼ばれた女性です。京都の誓願寺に残る記録に「大和様慈雲院殿」と見え、大和を治めた秀長の妻だったことがわかります。父は秀長の家臣だった神戸伝左衛門とする説があり、結婚は永禄9年(1566)ごろと推定されています。生まれた年や俗名はわかっていません(慶(ちか)とは)。
側室・興俊尼 ─ 法華寺の尼だった女性
秀長の側室として名が伝わるのが、興俊尼です。俗名はお藤、光秀尼とも呼ばれ、系譜によっては摂取院光秀という名でも見えます。大和の国人・秋篠伝左衛門の娘で、母も大和の国人・鷹山氏の娘とされます。
江戸時代の奈良の名所記『奈良名所八重桜』によると、お藤はもと奈良の法華寺の尼でした。寺を訪れた秀長に見初められ、のちに身ごもって、縁のある菊岡宗政の屋敷で娘のおきくを産みます。そして還俗してお藤と名のり、郡山城に迎えられたといいます。時期は天正15年(1587)ごろと推定されています(第37回「秀長の国」あらすじ予想と史実)。
娘のおきく ─ 秀保の妻、そして毛利秀元の妻へ
興俊尼が産んだとされるおきくは、天正19年(1591)、秀長が亡くなる直前に、跡継ぎとなった養子の秀保と祝言をあげたとされます。秀保が文禄4年(1595)に亡くなったあとは、秀吉の養女として毛利家の跡継ぎ候補だった毛利秀元に嫁ぎ、慶長14年(1609)に亡くなりました。秀長の娘たちの嫁ぎ先には諸説があり、秀長の娘たちと毛利秀元とはで詳しく紹介しています。
秀長の死後 ─ 興福院を再興した尼
天正19年に秀長が亡くなると、興俊尼は再び尼となり、奈良の興福院(こんぶいん)の再興に力を尽くしたと伝わります。秀長または秀吉から寺領二百石を寄せられたともいわれ、興福院はのちに江戸幕府からも寺領を与えられて続きました。興俊尼は元和8年の暮れに亡くなり、「藤誉光秀大姉」と刻まれた墓碑が残ると伝わります。秀長の家は秀保の死で絶えましたが、秀長ゆかりの女性が再興した寺は、奈良の地に受け継がれていったのです(豊臣秀長の子孫・家系はどうなったのか)。
秀吉と秀長、女性関係の違い
秀吉は、茶々・松の丸殿・加賀殿・三の丸殿など、名家の娘を次々と側室に迎えました。跡継ぎを求めたことに加え、旧主の織田家や名門の娘を妻とすることで、自分の家の格を高める意味もあったと考えられます。一方の秀長は、わかっている範囲では正室ともう一人ほどでした。表に立つ兄と、裏で支える弟。二人の違いは、女性関係にも表れていたといえるかもしれません(秀吉の側室は何人いたのか)。
よくある質問
Q. 豊臣秀長に側室はいましたか?
A. 興俊尼(お藤)という側室がいたと伝わります。ただし江戸時代の伝承によるもので、真偽ははっきりしません。
Q. 秀長の正室はだれですか?
A. のちに慈雲院(智雲院)と呼ばれた女性で、『豊臣兄弟!』の慶のモデルです。
Q. 興俊尼はどんな人ですか?
A. 大和の国人・秋篠氏の娘で、もとは奈良の法華寺の尼だったと伝わります。秀長の死後は奈良の興福院を再興しました。
Q. 秀長の側室は何人いましたか?
A. 名前がわかるのはほぼ興俊尼一人です。もう一人いたとする説もありますが、根拠は弱いです。
まとめ
秀長の正室は慈雲院で、側室として名が伝わるのは、法華寺の尼だったという興俊尼(お藤)です。興俊尼は娘のおきくを産んだとされ、秀長の死後は奈良の興福院を再興しました。ただしその話は後世の伝承で、確かとは言いきれません。十人を超える側室を持った兄の秀吉にくらべ、秀長の女性関係はきわめて少なく、ここにも「表の兄、裏の弟」という二人の違いが見えてきます。
参考:『奈良名所八重桜』/『誓願寺奉加帳』/黒田基樹『羽柴秀長の生涯』平凡社新書/福田千鶴『豊臣家の女たち』岩波新書

