- 勝頼が越後へ入ったのは、景虎の実兄・北条氏政に援軍を求められたからでした
- ところが勝頼は景虎と戦わず、景勝と和睦します。見限ったというより、仲裁して帰った形です
- その代わりに受け取ったのが、東上野と北信濃です。信玄が長く争った土地が、戦わずに確定しました
- しかし和睦は守られず、景虎は翌年に自刃。北条との同盟は切れ、武田は三年九か月後に滅びます
武田勝頼が越後へ兵を進めたのは、上杉景虎を助けるためでした。景虎の実の兄である北条氏政から、援軍を求められたからです。ところが勝頼は景虎と戦うことも助けることもせず、相手方の上杉景勝と和睦して帰りました。裏切りのように見えますが、勝頼がやったのは両者の仲裁です。そして仲裁の代わりに、東上野と北信濃を受け取りました。この四か月が、のちの武田家の運命を決めていきます。
謙信が死んだとき、越後には後継者が二人いた
天正六年三月十三日、春日山城で上杉謙信が倒れ、そのまま世を去りました。四十九歳。生涯不犯を通したと伝わるこの人に実子はなく、跡目を誰にするかも決めていませんでした。残されたのは二人の養子です。
一人が上杉景勝。謙信の姉・仙桃院の子で、上田長尾家の生まれです。血のつながりでいえば甥にあたります。もう一人が上杉景虎。こちらは相模の北条氏康の子で、越後と相模が同盟を結んだときに人質として越後へ入り、そのまま謙信の養子になりました。謙信は景虎をことのほかかわいがったと伝わります。
動きが早かったのは景勝でした。謙信が死んで間もなく、春日山城の中心である実城に入り、金蔵と兵器蔵を押さえます。三月下旬には、謙信の遺言によって家督を継いだと内外に告げました。謙信が一代で積み上げた越後の富は、この時点で景勝の手の内にありました。

景虎が頼ったのは、実の兄だった
先を越された景虎は城を出て、御館に入ります。御館は、関東を追われた関東管領・上杉憲政のために謙信が春日山の麓に造らせた館で、二重の堀に囲まれた大きな施設でした。その憲政が景虎を擁立します。関東管領の名分が景虎の側に立った形です。
そして景虎は、相模へ使いを出しました。兄の北条氏政です。氏政はすぐに動き、弟を助けるために兵を向けます。ただ、北条の本国から越後までは遠い。三国峠を越える道は険しく、関東では佐竹や里見とも向き合っていました。そこで氏政は、同盟相手である甲斐の武田勝頼にも援軍を求めます。
このとき武田と北条は、十年あまり続いた甲相同盟のただ中にありました。勝頼の妹は氏政の弟に嫁ぎ、氏政の妹は勝頼の父・信玄の子に嫁いでいます。同盟国からの頼みであり、しかも相手は同盟国の当主の弟です。勝頼が断る理由はありませんでした。
勝頼はなぜ戦わずに帰ったのか
天正六年五月、勝頼は信濃の北端まで兵を進め、越後へ入りました。ここで景虎方に加わって景勝を攻めれば、話は早かったはずです。実際、景虎方は序盤かなり優勢でした。上野の国衆の多くも景虎に味方しています。
ところが勝頼は攻めませんでした。六月、景勝との間で和睦を結びます。さらに景勝と景虎のあいだにも仲裁を入れ、人質を取り交わさせて、越後の争いそのものを収めようとしました。そして八月、兵を引いて帰国します。
勝頼の側から越後を見ると、景色が違って見えます。もし景虎が勝てば、越後は実質的に北条のものになります。武田から見て、北にも東にも北条がいる形です。信濃の北側が、そのまま北条領と接することになる。これは武田にとって悪い未来でした。
逆に景勝が勝てば、越後は北条とは別の勢力として残ります。しかも家督を固めきれていない景勝は、外の後ろ盾を欲しがっていました。足元を見られる立場にいたのは、景勝のほうだったのです。
もうひとつ、勝頼には時間がありませんでした。越後に長居しているあいだに、徳川家康が駿河へ手を伸ばし始めます。西に織田、南に徳川を抱えた武田が、雪国で冬を越すわけにはいきません。短い期間で、確実に取れるものを取って帰る。勝頼が選んだのはそれでした。
勝頼が受け取ったもの
和睦の見返りとして勝頼が得たものは、はっきりしています。東上野の割譲と、北信濃の領有の承認です。どちらも、父・信玄が長く兵を出して争ってきた土地でした。
北信濃は、信玄と謙信が五度にわたって川中島で向き合った場所です。十年以上かけて決着のつかなかった土地が、一通の和睦で武田のものと認められました。東上野も同じで、沼田や厩橋の方面は北条とのあいだで取り合いが続いていた土地です。それを、北条に断りなく武田の分として確定させたことになります。
さらに、勝頼は妹の菊姫を景勝に嫁がせました。輿入れは翌天正七年の十月です。これで甲越同盟が形になりました。直江兼続ら景勝の側近が、この縁組を進めたと伝わります。
黄金一万両の話をどう見るか
この和睦には、昔から「勝頼は黄金一万両に目がくらんだ」という話がついて回ります。『甲陽軍鑑』が伝えるもので、側近の長坂釣閑斎や跡部勝資が金に釣られて勝頼をそそのかした、という筋です。ただ、この見方には注意がいります。
どれかひとつが正しい、という話ではないと思います。ただ、北条家が関東で広げてきた版図を思えば、越後までその手に渡ることを武田が歓迎するはずはありません。金の話は、あとから付けられた説明に見えます。

和睦は守られなかった
勝頼が帰国すると、仲裁はほどなく崩れます。景勝方が攻勢に転じ、御館は包囲されました。天正七年三月、御館は落ちます。上杉憲政は和議の使者として景虎の子を伴って春日山へ向かいましたが、途中で討たれ、和議は成りませんでした。
景虎は越後と信濃の境に近い鮫ヶ尾城へ逃れます。しかし城主に背かれ、三月二十四日、自ら命を絶ちました。二十六歳です。御館という名がそのまま乱の名として残ったのは、ここが最後まで景虎の拠りどころだったからです。
勝頼が景虎を見限ったのかというと、話はもう少し複雑です。勝頼は討っていませんし、和睦の仲立ちまでしています。ただ、仲立ちをしたうえで帰り、その和睦が破られたときに何もしなかった。結果だけを見れば、見限ったのと同じでした。
この四か月が武田家をどこへ連れて行ったか
弟を見殺しにされた北条氏政の怒りは当然です。天正七年九月、北条は武田との同盟を切り、織田信長と徳川家康に接近しました。十年あまり背中を預けてきた相手が、正面の敵に回ったのです。
これで武田は、西に織田、南に徳川、東に北条を抱えることになりました。のちに沼田をめぐって真田と北条と徳川が争うことになる東上野も、このとき勝頼が手に入れた土地です。取った土地は、そのまま守るべき正面になりました。
勝頼は新たな本拠として新府城を築きますが、完成を待たずに織田の軍が信濃へ入ります。天正十年三月、岩殿山城の小山田信茂にまで背かれ、武田家は滅びました。越後での和睦から、三年九か月後のことです。

よくある質問
Q. 勝頼は景虎と戦ったのですか?
A. 戦っていません。越後へ入ったあと景勝と和睦し、景虎との仲裁をしてから帰国しています。
Q. 黄金一万両は本当にあったのですか?
A. 『甲陽軍鑑』が伝える数字です。同書は武田滅亡後の成立で、勝頼や側近に責めを負わせる書き方が多く、そのまま受け取るのは難しいところです。
Q. 景虎が勝っていたら、どうなっていましたか?
A. 越後は北条の勢力圏に入っていた可能性が高く、武田は北と東の両方で北条と接することになります。勝頼が避けたかったのはこの形でした。
Q. 御館の乱で直江兼続が世に出たというのは本当ですか?
A. このとき樋口兼続は景勝の側近として働き、乱ののちに直江家を継ぎます。与板城はその直江家の城です。
まとめ
勝頼が景虎を見限ったように見えるのは、結果から振り返るからです。その場の勝頼にとっては、越後が北条のものになるのを止め、父の代から争ってきた東上野と北信濃を戦わずに確定させる、という選択でした。短期で見れば悪い判断ではありません。ただ、同盟というものは、約束を守らせるところまで含めて同盟なのだと思います。勝頼は和睦を結ばせはしましたが、守らせることはできませんでした。手に入れた土地は残り、失った同盟は戻らなかった。その差が、三年九か月後に出ました。
このとき勝頼は、すでに織田と徳川を敵に回していました。しかもその織田は、父・信玄のころよりもさらに版図を広げ、年を追うごとに大きくなっていきます。
そう考えると、背後の北条、北の上杉とは同盟を結んでおかなければならない。そんなことは誰にでも分かることだと思うのです。
それなのに北条を怒らせて、西に織田、南に徳川、東に北条。残るは北の上杉だけになってしまいました。
普通なら、越後の乱は静観してどちらからも恨まれないようにするか、いっそ北条側の景虎について越後と関東をしっかり結ぶか、そのどちらかしかないでしょう。素人ながら、私はそう思いました。

