- 越後は貧しい雪国ではなく、青苧(あおそ)という繊維の一大産地でした。その流通を押さえたことが、兵を長く動かす銭になりました
- 本国が日本海と山に囲まれ、冬は雪が国境をふさぎます。長く国を空けても攻め込まれにくい国でした
- 関東管領を継いだことで、関東へ出る大義名分を得ました。敵の側から見れば「幕府の秩序に逆らう側」にされてしまう
- いっぽうで城攻めは得意ではありません。小田原・唐沢山・臼井と、落とせなかった城がいくつもあります
上杉謙信は「軍神」と呼ばれます。ただ、強さの中身を聞かれると、答えに詰まる方が多いのではないでしょうか。本人が猛かったから、というだけでは、二十年にわたって関東・信濃・北陸へ出続けた説明がつきません。ここでは、謙信の強さを人柄ではなく、越後という国の造りから見ていきます。銭と、地形と、名分です。そして最後に、強くなかった部分も正直に書きます。

強さの土台① 越後は豊かな国だった
雪国というと貧しい土地を思い浮かべますが、戦国の越後はちがいました。青苧(あおそ)という作物の一大産地だったのです。カラムシとも呼ばれる麻の一種で、茎から取れる繊維は上質な布になります。これが京で高く売れました。
大事なのは、作っていたことより、その流れを押さえていたことです。越後の青苧は直江津の湊から船に積まれ、日本海を西へ、越前や若狭の湊に着いてから京へ運ばれました。長尾家の御用商人だった蔵田五郎左衛門は青苧座の頭目をつとめ、京で課税の権利を持っていた公家の三条西家と、その減額を交渉したとも伝わります。
兵を動かすには銭がいります。米だけでは、国を空けて半年も遠征はできません。謙信が毎年のように国の外へ出られたのは、この銭があったからです。城そのものの造りについては春日山城跡 ─ 山ひとつが城だった謙信の居城にまとめています。
強さの土台② 本国が攻められにくい
地図を思い浮かべてください。越後の北は日本海です。背後から攻められる心配がありません。南と東は三国山脈をはじめとする山並みで、冬になれば雪が国境をふさぎます。
この造りのおかげで、謙信は長く国を空けられました。関東へ出れば数か月は帰りません。ふつうの大名なら、その間に本国を突かれます。謙信の場合、攻め込める道が限られていた。逆に言えば、謙信のほうは越中・能登へも、信濃へも、三国峠を越えて関東へも出られる。一方向からしか攻められない国が、三方向へ攻められたわけです。武田との五度にわたる戦いは川中島の戦い(前編)でくわしく追っています。
強さの土台③ 関東管領という名分
永禄四年、謙信は鎌倉の鶴岡八幡宮で、上杉憲政から山内上杉家の家督と関東管領の職を譲り受けました。長尾景虎から上杉政虎になったのはこのときです。
関東管領は、室町幕府が関東を治めるために置いた役です。戦国の世ではもう実権がありませんが、名分としては生きていました。謙信が関東へ出るのは「私の欲で攻める」のではなく「管領として関東の秩序を正す」という形になる。攻められる北条の側は、逆に秩序を乱す者にされてしまいます。関東の国衆が謙信に従ったのは、強いからというだけではなく、この名分があったからでもありました。憲政が守り切れなかった本拠については平井城跡(藤岡市)に書いています。
もっとも、名分は人の心までは縛りません。謙信が越後へ帰れば、関東の国衆はまた北条につきます。翌年また出てくる、その繰り返しでした。
ただし、城攻めは強くなかった
ここは正直に書いておきます。野戦の謙信は恐ろしく強い。けれども、城を落とすのは得意ではありませんでした。
| 城 | いつ | 結果 |
|---|---|---|
| 小田原城(相模) | 永禄四年 | 十万とも伝わる軍で囲んだが落とせず退いた |
| 唐沢山城(下野) | 永禄年間〜天正四年 | 一万五千で囲んでも落ちず、たびたび撃退された |
| 臼井城(下総) | 永禄九年 | 土の城に跳ね返され、大きな損害を出した |
| 七尾城(能登) | 天正四〜五年 | 一年攻めあぐね、最後は内応で開いた |
どれも石垣のない、土と地形でできた城です。唐沢山城は関東随一の山城で、佐野氏は一族の加勢を得ながら謙信を何度も退けました。臼井城跡は土塁と空堀だけの城ですが、謙信の大軍を跳ね返しています。七尾城跡にいたっては一年かかり、力攻めではなく内側から門が開いて決まりました。
城を囲めば兵糧と時間を食います。謙信の遠征が毎年くり返しになったのは、落とせないまま冬が来て引き揚げる、という形が多かったからでもあります。
では、謙信の強さとは何だったのか
こうして並べると、見えてくるものがあります。謙信の強さは「勝ち切る強さ」ではなく、「負けない強さ」でした。
攻められにくい国を背に、銭で兵を養い、名分を掲げて出ていく。思うように落とせなければ引き揚げ、翌年また出る。これを二十年続けられること自体が、ほかの大名にはできない芸当です。武田も北条も、本国を空ければ背後を突かれる位置にいました。謙信だけが、それを気にせず出られた。
そして、その強さは謙信ひとりのものでした。天正六年に謙信が急死すると、跡目をめぐって景勝と景虎が争い、越後は内側から割れます(御館跡 ─ 直江兼続が世に出た御館の乱)。攻められにくい国が、内側からは崩れたのです。
よくある疑問
Q. 謙信は生涯無敗だったのですか?
A. いいえ。臼井城では大きな損害を出して退いていますし、小田原も唐沢山も落とせていません。「七十戦して負けは二度」といった数え方は江戸時代の軍記に基づくもので、何を一戦と数えるかによって変わります。
Q. 越後は貧しい国ではなかったのですか?
A. 青苧という高く売れる品の産地で、日本海の湊も持っていました。米の石高だけで国の豊かさは測れません。
Q. なぜ冬に関東へ出たのですか?
A. 雪が越後の国境をふさぐあいだは、本国が安全だからです。関東側は雪が少なく、兵を動かせました。
Q. 川中島で武田に勝ったのですか?
A. 五度戦って、どちらかが相手の国を取ったわけではありません。第四次は激戦でしたが、勝敗の評価は分かれています。
Q. 天下を狙わなかったのですか?
A. 謙信の出兵は、関東管領として関東の秩序を正す、あるいは助けを求めてきた者を救う、という形を取るものが多く、領地を広げて天下を取るという動きとは性格がちがいました。
まとめ
上杉謙信が強かった理由は、青苧が運んできた銭、日本海と雪に守られた国の造り、そして関東管領という名分の三つに整理できます。この三つがそろっていたから、毎年のように国を空けて遠くまで出ていけました。いっぽうで城攻めは不得手で、小田原も唐沢山も臼井も落とせていません。勝ち切る強さではなく、負けずに出続けられる強さだった、と見るのがいちばん実像に近いと思います。

