秀長は大和・紀伊・和泉の三か国を預かりました。体はひとつです。しかも京での仕事が多く、郡山を長く空けます。だから紀伊には城代を置きました。桑山重晴です。城代とは、城主の代わりに城と周りを預かる役で、城主との違いは自分の領地から税を取るかどうかにあります。そして動員を命じる権限と、恩賞を与える権限は、最後まで主君が手放しませんでした。
- 城代と城主と城番は何が違うのか
- 城代がどこまでできて、何ができなかったのか
- 秀長が三か国をそれぞれ違うやり方で治めていたこと
- なぜ和歌山を桑山重晴に任せたのか
- 城代の家が、のちに将軍の茶の師を生んだこと
城主と城代は、何が違うのか
- 城主 城の持ち主。城のまわりの土地を支配し、年貢を取る
- 城代 城主の代わりに城を預かる者。領地を持つ場合もあるが、預かった城のまわりから自分のために税を取るわけではない
- 城将 大名から城の守りを任された武将。領地は持たない
- 城番 城を守る兵。城代や城将と同じ意味で使われることもある
秀長の家老たちがどこの城を与えられたかを見ると、この区別が実際にどう使われたかが分かります。
いちばん分かりやすい線引きは、税を取るかどうかです。城主は取ります。城代は預かるだけです。
ただし城代は単なる留守番でもありません。支城とその周りの土地の支配について、主君から権限の一部を分けられた立場です。日々の年貢の取り立て、近所の揉め事の裁き、城の普請。このあたりまでは城代が回します。
では、何ができなかったのか
ここが面白いところです。武田家の城代を分析した研究が、はっきりした線を引いています。
小川下野守のように、役割がはっきりしない家臣がいるのも、この時代の職名が流動的だったからです。
つまり城代とは、兵を集める人ではなく、集まった兵を主君の命で現地指揮する人です。褒美を出すこともできません。これが城主との決定的な差でした。
秀長の領国にも、これを裏づける文書が残っています。天正十五年の十一月、検地奉行の小堀正次が十津川の村へ出した書状に、こうあります。秀長の墨付(花押入りの文書)を持たない者の取り立てには応じるな、と。現地で年貢を取るには、秀長自身の文書が要った。城代も代官も、授権されてはじめて動けたのです。
秀長は三か国を、三通りのやり方で治めた
ここが本題です。秀長は三か国に、まるで違うやり方を当てています。
- 大和 自分で入る。郡山城を本拠に大改修し、城下町を整える。検地も自ら進める
- 紀伊 和歌山城に城代を置く。桑山重晴。各地にも家臣を配置
- 和泉 代官を置く。羽田正親と井上源五高清。しかも岸和田城には秀吉の身内である小出秀政が三万石で入っている
和泉の岸和田に秀吉の身内が入っているのは見逃せません。大和という国の事情とあわせて、秀長の領国が純粋な自前の国ではなかったことを示しています。
城代が置かれたのは紀伊だけです。大和は自分がいる。和泉は代官で足りるうえ、そもそも全部が秀長の自由にはなっていない。紀伊だけが、遠くて、国人が多くて、城も建てたばかりでした。だから常駐の責任者が要ったのです。
秀長は、どれくらい郡山にいなかったのか
「本拠は郡山」と言われますが、実際の動きを追うと印象が変わります。
- 七月から八月 京の聚楽第で毛利を接待。約一か月
- 九月 郡山で家康や毛利輝元を接待。その後、有馬で湯治
- 翌年一月末から五月 淀城の普請で約三か月半、郡山を離れる
- 七月 丹波亀山城の接収
- 八月 天皇の御所で能を主催
- 九月 妻の上洛に伴って自身も京へ
淀城の普請だけで三か月半です。しかも秀長には聚楽第のなかにも屋敷がありました。
理由は明快で、この人は中央の仕事を抱えていたからです。大友宗麟が上洛したとき、秀吉はこう言ったと伝わります。「内々の儀は宗易、公儀の事は宰相」── 内向きのことは利休に、おおやけのことは秀長に。長宗我部との和議も、島津の降伏の受け皿も、家康上洛の舞台も秀長でした。畿内にいなければできない仕事があったのです。
その間、紀伊を誰かが回していなければなりません。それが城代でした。
なぜ桑山重晴だったのか
桑山重晴は尾張の出で、はじめ丹羽長秀の与力、のち秀吉の奉行衆、そして天正十一年ごろまでに秀長の直臣になった人です。賤ヶ岳の戦いでは山頂の砦を預かりました。
重晴が和歌山城代になったのは天正十三年から十四年にかけて。石高は一万石から三万石に加増されています。これは秀長の家中で最上位の部類です。三家老と並ぶ格でした。
なぜこの人だったのかを直接説明する文書は見つかりません。ただ、但馬の竹田城主をつとめた経験があり、秀吉からの移籍組で兄弟どちらにも通じる立場にあり、家中最上位の知行を持っていた。遠国を任せるなら、この条件がそろう人物はほかにいません。
和歌山城は、誰が造ったのか
築城にあたって、それまで「若山」と呼ばれていた地名が「和歌山」に改められました。地名のほうが城に合わせて変わったわけです。
構造としては、秀長が城主で、重晴が城代。秀長は郡山にいて和歌山には住まない。重晴が城を預かり、のちに山の部分や岡口の整備も手がけました。
城代の家が、城主の家になった
この話には続きがあります。
天正十九年に秀長が死に、文禄四年には跡を継いだ秀保が十七歳で急死して、大和の豊臣家は絶えました。このとき重晴は秀吉の直臣になります。そして翌年、孫の桑山一晴が和歌山城主になりました。城代の家が、城主の家になったのです。
同じことが本多家にも起きています。主家が絶えたことで、家臣が独立した大名になる。小堀家が生き残ったのも同じ時期の話です。
関ヶ原では桑山家は東軍につき、和歌山城を守りました。その後、和歌山には浅野幸長が三十七万石余で入り、元和五年からは徳川頼宣が五十五万五千石で入って、紀州徳川家の城になります。桑山家は大和の新庄へ移り、一万六千石の藩になりました。
もうひとつの線 ── 茶の湯
重晴は千利休に茶を学んだ人でもありました。ただし利休七哲には数えられません(七哲は高山右近、蒲生氏郷、細川忠興ら七人です)。
重要なのは三男の桑山宗仙です。この人は利休の長男・千道安の高弟で、そして片桐石州の茶の師でした。石州は慈光院を建てた人で、のちに将軍徳川家綱の茶道師範になります。
つまり利休 → 道安 → 桑山宗仙 → 片桐石州 → 将軍家綱という線が引けます。和歌山城代の子が、将軍の茶の師の師になった。
よくある質問
ほかの城は誰が預かったのですか。
紀伊では粉河に藤堂高虎、田辺に杉若無心、新宮に堀内氏善、紀伊湊に吉川平介。大和では高取城に本多利久、宇陀松山城に多賀秀種が配されました。
秀長は本当に百万石だったのですか。
公称です。慶長三年の国別の石高を足すと大和・紀伊・和泉で約八十三万石。『文禄検地帳』では七十三万四千石です。しかも和泉の岸和田三万石は秀吉の直臣領なので、実際はさらに下がります。七十万石台後半から八十万石台前半と見るのが妥当です。
城代は江戸時代にもいたのですか。
います。ただし意味が変わりました。大坂城代は将軍直属の役職で、譜代大名から選ばれ、京都所司代や老中へ進む出世の階段になりました。熊本藩では一国一城令の例外として八代城が残り、松井家が二百二十五年にわたって城代をつとめています。
「留守居」も城代と同じですか。
戦国期は近い意味でしたが、江戸時代になるとまったく別物になります。幕府の留守居は大奥の取り締まりや関所の女手形を扱う役で、大名の江戸留守居は幕府との連絡係でした。城の留守番ではありません。
まとめ
城代とは、城主の代わりに城を預かる役です。年貢を取り、揉め事を裁き、城を普請する。けれど兵を集めることと、褒美を出すことはできません。そこは主君が手放さなかった権限でした。
秀長は三か国を、自ら入る国、城代を置く国、代官に任せる国と、三通りに分けて治めました。この人の仕事が帳簿と文書の積み重ねだったことは、こういう配り方にも出ています。
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