川窪清俊とは:『豊臣兄弟!』に出てくる奈良の豪商は実在したのか、「国主は我ら商人だ」と言えた理由

金地の屏風の前で筆を持つ絵師のイメージイラスト(狩野永徳)

川窪清俊(かわくぼ きよとし)は、『豊臣兄弟!』第三十八回に出てくる奈良の豪商です。この名前の人物は、史料に見当たりません。ドラマのために立てられた人物とみられます。ただし、彼が代表している立場──寺を後ろ盾に商いを独占し、国主の命令に従わなかった奈良の商人たち──は、まぎれもなく実在しました。

▶ この記事でわかること
  • 川窪清俊という人物が史料にいるのか
  • 奈良の商人が国主に逆らえた理由
  • 「この国の国主は我ら商人だ」と言えた根拠
  • 実在の奈良の有力者は誰だったのか
  • 結局、商人たちはどうなったのか
目次

史料に名はない

川窪清俊という奈良の商人は、戦国期の史料に出てきません。『多聞院日記』にも、奈良町の記録にも見当たりません。番組公式の人物紹介にも載っていないので、この回のために用意された人物と考えるのが自然です。

同じ回に出てくる筆屋の才蔵も、史料に名のない人物です。ドラマは、実在の政策を描くために、その両側に立つ商人を二人こしらえたことになります。奈良を出た職人と、奈良に残った豪商。対になる配置です。

奈良の商人が、なぜ国主に逆らえたのか

「昨日今日出てきた秀長に何ができる」という台詞は、史実の構造を正確に言い当てています。

大和には、戦国大名が育ちませんでした。守護が置かれても実権は寺にあり、興福寺が国の中心でした。松永久秀が入っても長続きしていません。国主は数年で入れ替わる通りすがりで、商人のほうは数百年そこにいる。力関係が、ふつうの国とは逆だったのです。

そのうえで商人たちが握っていたのが座でした。興福寺の大乗院を本所とする座は六十あまりあり、塩、油、材木から菅笠、心太まで押さえていました。仕入れも、運搬も、販売も、座の権利です。座の外の者は商売そのものができません。

「この国の国主は我ら商人だ」の根拠

▽ よく語られる話
商人が国主に向かってこんな口をきけるはずがない。ドラマの誇張だろう。
▼ 史実ではこうです
大和という国に限っては、誇張とは言い切れません。大和は豊かな土地なのに、国主の財布だけが細い国でした。田も商いも寺社の権利で細かく分かれていて、国主の取り分が残らない。だから大名が育たず、入ってきた者も根を張れませんでした。実際に国を動かしていたのは寺であり、その下で商いを回していたのが商人たちです。

彼らが守ろうとした「古くからの決まり」も、ただの既得権ではありません。座は独占であると同時に、品質と信用の保証でもありました。どこの座の品かが分かることが、保証書の役目を果たしていたのです。だから「長年培ってきた技も信用も失いかねない」という言い分には、理があります。

ただし、同じ仕組みが内側から腐るのも事実でした。買い手に選択肢がなければ、品を良くする理由がなくなります。「数だけ多く作ればよい」「粗末でも買う」と言われて才蔵が座を飛び出したのは、その裏側です。守る側は信用と呼び、出た側は堕落と呼ぶ。同じものを見ています。

実在の奈良の有力者は誰だったのか

川窪清俊という個人はいませんが、彼の位置にいた人々は記録に残っています。

▶ 戦国期の奈良を動かしていた人たち
  • 興福寺 六十余の座の本所。灯明の油も、写経の墨も、自分のところで作らせていた
  • 奈良惣中 町の自治組織。十二の町を単位として、六人の町年寄が選ばれていた
  • 井上源五高清 秀長が大和を預かったのち、奈良代官に任じられた人物
  • 南都諸白の造り手 当時の奈良は日本最大の酒どころでもあった

注目したいのが奈良惣中です。十二の町が「櫃本(ひつもと)」と呼ばれる単位をつくり、町年寄を出していました。郡山の箱本十三町と、名前がよく似ています。秀長が郡山につくった自治の仕組みは、奈良にあったものを移植したものと読めます。

つまり、奈良の商人たちは追い出されただけではありません。彼らのやり方ごと、新しい町へ移されたことになります。

ドラマと史実のいちばん大きなずれ

▽ よく語られる話
秀長は一か月で町を栄えさせて見せ、それを見た奈良の商人たちが納得して郡山へ移ってきた。
▼ 史実ではこうです
史実の秀長は、説得していません。天正十三年十月、奈良での商売そのものを禁じました。味噌も酒も海草も含めて、奈良では売るなという命令です。断られたから力ずくに切り替えた、という順序になります。そして町が形になるのは一か月後ではなく、三年後です。

寺のほうも穏当には済んでいません。興福寺は検地で寺領を削られ、『多聞院日記』の天正十三年九月二十五日に「一万石可落之」とあり、翌年はさらに七千二百五十石。最終的に秀長が入る前の五分の一になりました。

ドラマは秀長を、約束して背負う人として描きました。史実の秀長は、もっと強引です。どちらが正しいという話ではなく、同じ結果に至る道が二つあるということだと思います。

結局、商人たちはどうなったのか

郡山へ移りました。これは確かです。

天正十六年の記録に、郡山の十三の町の名が並びます。そのなかに奈良町があります。今井町、堺町もある。移ってきた商人の出身地が、そのまま町名になったのです。いまも大和郡山市に残っている町名です。

そして移った先は、自由な町ではありませんでした。十三町は地子を免除された「内町」とされ、町ごとに同業の独占が認められます。紺屋町に与えられた文書には、こうあります。

他町ニ壱間もこうや不可相立候也

他の町には紺屋を一軒も立ててはならない、という意味です。寺の座を壊した先にあったのは、城下町の座でした。戦国の商いが何で決まっていたのかを見ると、これは例外ではなく、当時のやり方そのものだと分かります。

よくある質問

川窪清俊は実在しないのですか。
同名の人物は、戦国期の奈良の記録に見当たりません。ドラマのために立てられた人物とみられます。ただし、彼のような立場の商人は実在しました。

奈良の商人は全員が郡山へ移ったのですか。
いいえ。奈良の町は消えていません。江戸時代の初めに町を数え直したとき、奈良には百の町があり、十七世紀の終わりには二百五町、三万五千人ほどが住んでいました。移った人も残った人もいたということです。

座はこれで無くなったのですか。
大和では力を失いましたが、座という仕組みそのものは各地で残りました。信長が壊した座も二つか三つです。「楽市楽座で座が消えた」というのは、やや単純化された言い方になります。

まとめ

川窪清俊という名の商人は、史料にいません。けれど「この国の国主は我ら商人だ」という言い分は、大和という国においては的を射たものでした。寺が国を押さえ、商人が商いを押さえ、国主が根を張れない。大和が貧しいとされた理由は、そこにあります。

その構造を壊したのが秀長です。やり方は、ドラマよりずっと強引でした。そして壊した先につくったのが箱本十三町── 新しい独占の仕組みでした。

▷ 大河ドラマではこう描かれました
第三十八回で、川窪清俊は奈良の豪商として登場します。「昨日今日出てきた秀長に何ができる」「この国の国主は我ら商人だ」「我らが何もない郡山などに行くわけがない」と、座の側の論理を代表する人物として描かれました。終盤では郡山に姿を見せています。
放送と再放送
本放送は日曜 午後8時(NHK総合)、日曜 午後6時(NHK BS)、日曜 午後0時15分(BSプレミアム4K)。再放送は翌週土曜 午後1時05分(NHK総合)と、日曜 午後6時(BSプレミアム4K)です。
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