- NHK「歴史探偵」が取り上げた『医学天正記』は、秀吉お抱えの医師・曲直瀬玄朔が書いた、現存する日本最古のカルテです
- 朝鮮出兵では毛利輝元や蒲生氏郷が病に倒れ、大名たちの病の連鎖が出兵の行方を左右しました
- 藤堂高虎の冷え、黒田長政・加藤清正の二日酔い、茶々の気うつなど、武将たちの素顔もカルテに残っています
- 番組では、玄朔が天皇より秀次の治療を優先したことが、秀次切腹の引き金になったのではないかという見方が紹介されました
NHK「歴史探偵」で、『医学天正記(いがくてんしょうき)』が取り上げられました。秀吉のお抱え医師だった曲直瀬玄朔(まなせ げんさく)が書いた診療記録で、現存する日本最古のカルテと呼ばれる史料です。この記事では、番組で紹介された内容を、朝鮮出兵を揺るがした大名たちの病、武将たちの意外な素顔、そして秀次切腹の理由の順にまとめます。
番組で紹介された『医学天正記』と曲直瀬玄朔
『医学天正記』には、玄朔が実際に診た患者の症状、見立て、出した薬が症例ごとに書かれていて、いまのカルテとほとんど同じ形になっています。診療記録はおよそ350例あり、症状ごとに約60の項目に分けてまとめられていて、患者には後陽成天皇や豊臣秀吉、豊臣秀次、毛利輝元、蒲生氏郷といった当時の権力者が並びます。秀吉のカルテには、風邪を漢方で治療した記録も残っています。
玄朔は「日本医学中興の祖」と呼ばれる曲直瀬道三の養子で、秀吉のお抱え医師でした。本の成り立ちや玄朔の生涯は「医学天正記とは:曲直瀬玄朔が書いた戦国のカルテ」でくわしく紹介しています。
当時多かった病気:胃腸の病、傷寒、そして瘧疾
『医学天正記』の記録でとくに多いのは胃腸の病で、当時の衛生環境が大きく影響していたとみられます。お尻から虫が出てくるぎょう虫に、当時の人がたいへん驚いたという話も番組で紹介されました。また、妊娠や産後の記録も多く、女性の患者も数多く診ていたことがわかります。
そのなかでも目立って多いのが「傷寒(しょうかん)」と「瘧疾(ぎゃくしつ)」です。傷寒は熱の出る病のことで、いまでいえばインフルエンザのようなものですが、マスクもない時代なので人から人へ広くうつりました。瘧疾は「おこり」とも呼ばれる、マラリアのような病です。蚊が運ぶ寄生虫による病気で、湿地や草木の多い戦場は、蚊に刺されやすい環境でした。
名護屋城に集まった30万人:朝鮮出兵の拠点
秀吉が起こした朝鮮出兵(文禄・慶長の役)の拠点となったのが、いまの佐賀県唐津市にある名護屋城です。五層の天守を備えた巨大な城でしたが、わずか6か月ほどで築かれたといわれていて、このまわりに全国から115もの大名が集まり、動員された人数は総勢およそ30万人にのぼりました。
ところが、海を渡った軍勢を待っていたのは、敵だけではありませんでした。『医学天正記』には、戦の最中に病に倒れた大名たちの記録が残っています。
毛利輝元の病:下痢と血便、そして歩けないほどの足の腫れ
3万の軍勢を率いて朝鮮半島に渡った毛利輝元は、上陸してまもなく体調を崩しました。カルテに記された症状は下痢と血便、足の腫れ、骨の痛みで、やがて歩くこともままならないほどになりました。番組では、これは「ライター症候群」ではないかと推測していました。ライター症候群はいまでは「反応性関節炎」と呼ばれ、赤痢などの腸の感染症にかかったあと、遅れて関節の腫れや痛みが出る病気で、血便をともなう下痢のあとに足が腫れたという流れによく合います。
輝元が倒れたことで、遠征軍の作戦にも狂いが生じました。本来は輝元の本隊が小西行長・加藤清正の先陣に合流する予定でしたが、輝元が加われないまま、先陣は明の軍勢と激突することになったのです。
秀吉は、輝元の病が戦線に響くことを心配し、「帰国してもよい、日本で治療しなさい」と手紙を送っています。輝元が朝鮮で亡くなれば、毛利軍にとっても、ほかの大名にとっても大きな打撃になるからです。しかも毛利軍では、輝元だけでなく軍全体で体調を崩す兵が相次いでいました。
冬の寒さに苦しんだ兵たち:「とうぎゃく」と戦場の手当て
毛利軍をはじめ多くの兵を苦しめたのが、朝鮮の冬の寒さでした。当時「とうぎゃく」と呼ばれた症状は、いまでいう凍傷のことで、低体温症にかかる兵も多かったとみられます。伊達政宗も「体が腫れる症状が出ると、10人のうち9人が亡くなる」と書き残しています。
番組では、戦場で体調を崩したとき、灰・ニラ・にかわ・布・お湯・生姜のうち何を使ったのかというクイズが出されました。答えは次のとおりです。
| 症状 | 使ったもの | 使い方 |
|---|---|---|
| 低体温症 | 灰と布 | 温めた灰を布で包み、カイロのようにして体を温めた |
| 耳に虫が入った | ニラとお湯 | ニラとお湯で耳の虫を取り除いた |
| 腰痛 | にかわとお湯 | お湯で溶かしたにかわを腰に塗った |
身近なものを工夫して手当てをしていた様子がよくわかります。
蒲生氏郷の病:10人の医師が診た末期がん
苦しい戦況を打開するため、秀吉は自ら前田利家や蒲生氏郷を率いて海を渡る意気込みを見せていましたが、その蒲生氏郷が病に倒れます。カルテに記された症状は下血と黄疸で、顔のまわりの肉が落ちるほどやせ細っていきました。番組では、おそらく大腸がんのステージ4、いまでいう末期がんだったのではないかと見立てていました。
氏郷の治療には、玄朔本人のほか9人の医師が順番にあたりました。当時の名医が10人がかりで診たことからも、秀吉が氏郷をどれほど重んじていたかがわかります。それでも玄朔は「9割がた助からないだろう。まだ食欲は少しあるが、日に日に悪くなるだろう」と診断し、その見立てどおり、氏郷は文禄4年(1595年)に40歳で亡くなりました。氏郷の病名をめぐるほかの説は「戦国武将の病気と死因」で紹介しています。
病の連鎖が朝鮮出兵の行方を変えた
秀吉は武力で朝鮮・明を治めようと考えていましたが、輝元が倒れ、兵は寒さに苦しみ、氏郷も病で失うなど、大名たちの病が次々と続いたことで、策を見直さざるを得なくなりました。番組は、この病の連鎖が朝鮮出兵の方向性を崩していったと伝えていて、戦の行方を決めたのは刀や鉄砲だけではなかったことがわかります。
武将たちのカルテ:藤堂高虎の冷え、黒田長政と加藤清正の二日酔い
『医学天正記』には、名だたる武将たちの意外な素顔も残っています。築城の名人として知られる藤堂高虎は「中寒(ちゅうかん)」、つまり体の冷えと記されていて、その原因は普請(城づくりや土木工事)で水に入ったからだと書かれています。
一方、黒田長政は「過酒」、つまり酒の飲みすぎによる二日酔いで、加藤清正もまた二日酔いでした。この二人は同じ症状で玄朔の世話になっていたわけで、じつは『医学天正記』には、酒の飲みすぎで体を壊した事例が30以上も記されています。
なかでも深刻だったのが小早川秀秋です。秀秋はアルコール中毒で、肝硬変だった可能性があるとされています。秀秋には飲まずにはいられない事情があり、関ヶ原の戦いで西軍を裏切ったことで酒に溺れ、その2年後の慶長7年(1602年)、21歳の若さで命を落としました。
茶々は本当に悪女だったのか:カルテに残る「気うつ」
秀吉の側室で秀頼の母となった茶々(淀殿)は、日本三大悪女の一人に数えられることがあります。しかし『医学天正記』では、茶々は「気うつ」と記されていて、めまいや食欲不振に悩まされ、やがて食事もとれなくなりました。
番組では、茶々の「悪女」というイメージは江戸時代に作られたものだと紹介していました。カルテに残る茶々は、強気な悪女ではなく、心と体の不調に苦しむ一人の女性だったのです。
秀次はなぜ切腹したのか:カルテが示すもうひとつの理由
番組の後半では、高野山・金剛峯寺にある、豊臣秀次が自刃した「柳の間」が紹介されました。秀次はなぜ切腹しなければならなかったのでしょうか。
通説では、事件の2年前の文禄2年(1593年)に秀頼が生まれたことがきっかけで、秀次は謀反を企てたという罪で切腹させられたと伝わっています(秀次事件)。ところが、秀頼が生まれてすぐ秀吉と秀次の仲が悪くなったとは考えにくく、二人の関係は悪くなかったといいます。秀次切腹の2か月ほど前には、秀吉は当時2歳だった秀次の息子を大和の領主にすえようとしていました。大和は、秀長のあとを継いだ豊臣秀保が文禄4年(1595年)4月に急死して空いた領地で、秀長の家を秀次の子に継がせようとしていたのなら、秀吉は秀次を排除しようとは考えていなかったことになります。
では、何が起きたのでしょうか。事件の1か月ほど前、玄朔は急いで伏見城へ向かっていましたが、そこへ後陽成天皇が体調を崩したという知らせが入りました。天皇は朝ごはんのあとに吐き気で苦しんでいて、食あたりでした。
同じころ、秀次も体調を崩していました。『医学天正記』には、秀次が喘息だったと書かれています。大人になってから出る喘息は、ストレスやプレッシャーが原因になることが多いとされ、関白として秀吉の後継者の立場にあった秀次には、大きな重圧がかかっていたとみられます。秀次は胸がふさがり、痰が詰まって苦しんでいました。
このとき玄朔は秀次の治療を優先し、天皇には「薬は使者に取りに来させてほしい」と伝えました。天下の名医を秀次が自分のために呼び寄せ、天皇の命を危険にさらしたことになり、これが謀反と受け取られたのではないか、というのが番組の見立てです。
秀吉は秀次に高野山での謹慎を命じましたが、その際、刀や脇差を持たせないようにと記されていて、秀次が切腹しないよう配慮していたことがわかります。しかし、俗世間から切り離された高野山へ送られた秀次は絶望し、自ら命を絶ちました。勘違いやささいなことから生まれたすれ違いが、取り返しのつかない結果を招いたのです。番組は、そこに戦国の厳しさがあるとまとめていました。
秀次の死は、のちに徳川家康につけ入るすきを与えることになりました。秀次が生きていれば、豊臣政権の行方は変わっていたかもしれません。番組の「もし」は、もし秀次が病気にならなければ、という問いかけでした。なお、玄朔自身もこの事件に連座して常陸へ流されていて、そのいきさつは「医学天正記とは」で紹介しています。
まとめ:カルテから見えてくる、戦国の人びとの体と心
『医学天正記』は、天下人や大名たちを診た名医が残した、およそ350例の診療記録です。朝鮮出兵では輝元や氏郷の病が戦の行方を左右し、武将たちは寒さや酒に苦しみ、茶々は気うつに悩んでいました。そして秀次の喘息という一つの病が、豊臣政権の未来まで変えてしまったのかもしれません。合戦や政治の記録だけでは見えてこない、戦国の人びとの体と心を伝えてくれる貴重な史料です。

