聚楽第とは:秀吉が天皇を迎え、そして自分で消した城

この記事のポイント

  • 聚楽第は関白・秀吉の「政庁」だった。大坂城とは役割がまるで違う
  • ここに後陽成天皇を迎え、諸大名に忠誠を誓わせた
  • 秀次に譲られたが、秀次事件のあと徹底的に破壊された
  • わずか八年ほどで消えた城。跡地はいま京都の市街地の下にある
大河ドラマ「豊臣兄弟!」は日曜20時放送。秀吉が関白として天下を治めていく時期の話です。

豊臣秀吉の城といえば、まず大坂城が出てくる。次に伏見城。だが、秀吉が天下人としていちばん重要な仕事をした建物は、そのどちらでもない。聚楽第(じゅらくだい・じゅらくてい)である。京都にあった、この壮麗な建物を知る人は多くない。理由は単純で、跡形もなく消されたからだ。

二条城

京都・二条城。聚楽第はこの城が建つより前、同じ京都にあった

目次

大坂城が軍事なら、聚楽第は政治だった

まず、二つの城の役割を分けて考えたい。大坂城は要塞である。巨大な堀と石垣を持ち、天下普請で築かれた攻められないための城だった。対する聚楽第は、京都に建てられた。天正十四年(1586)に着工し、翌年に完成している。

なぜ京都なのか。天皇がいるからである。秀吉は関白になった。関白は朝廷の役職であって、武家の棟梁ではない。朝廷のそばに政庁を構える必要があった。大坂城は武力の象徴、聚楽第は権威の象徴。秀吉はこの二つを使い分けていた。

▽ よく語られる話
聚楽第は、秀吉が贅を尽くして建てた豪華な邸宅だった。
▼ 史実ではこうです
豪華だったのは事実です。ただ邸宅ではなく、堀と石垣を持つ城郭でした。
そして目的は見栄ではありません。ここに天皇を迎え、諸大名に忠誠を誓わせるための舞台装置でした。

天皇を迎えた五日間

この建物の役割が最もはっきり出たのが、天正十六年(1588)四月の行幸である。後陽成天皇が、聚楽第を訪れた。数日にわたって滞在している。天皇が臣下の屋敷を訪ねるのは、当時としては極めて特別なことだった。それだけで秀吉の地位が可視化される。

そして秀吉は、この場を最大限に使った。集まった諸大名に、天皇の前で誓紙を出させたのである。秀吉に従い、逆らわないという誓いを、文書にして提出させた。ここが巧妙なところだ。秀吉個人への忠誠なら、力関係が変われば反故にできる。だが天皇の前で誓った以上、破れば朝廷への裏切りになる。

前年に九州を平定し、家康も臣従させたあとである。武力で並べた駒を、権威で固定したのがこの行幸だった。

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秀吉はなぜ関白になったのか:征夷大将軍を選ばなかった理由と豊臣姓の創出

なぜ将軍ではなく関白だったのか。聚楽第を建てた理由も、そこにあります。

「聚楽」という名前の意味

名前にも触れておきたい。「聚楽」とは、楽しみを集める、という意味である。城の名としては、ずいぶん柔らかい。戦国の城の名を思い出してほしい。一乗谷小谷玄蕃尾——地名か、人名か、地形の名である。

戦うための城に、洒落た名前は要らない。だが聚楽第には、意味のある名前が付けられた。ここに、この建物の性格が出ていると思う。これは戦う場所ではなく、見せる場所だった。秀吉は豊臣という姓を新しく作った人である。名前で世界を作り替えることに、この人はためらいがなかった。聚楽第という名も、その延長線上にある。

八年で消えた城は、ほかにもある

短命な城という点で、聚楽第は孤立していない。北ノ庄城は勝家が築いてから八年ほどで焼けた。安土城も本能寺の直後に焼失し、十年に満たない。戦国から江戸へ移る時期は、城の寿命が異常に短い。時代の変わり目にできた城は、時代が変わると要らなくなるからである。

ただ聚楽第だけは、燃えたのでも攻められたのでもない。持ち主が、自分の意思で壊した。戦国の城は敵に壊される。聚楽第は、味方に壊された。そこが決定的に違う。

秀次に譲り、そして消した

天正十九年(1591)、秀吉は関白の座を甥の豊臣秀次に譲る。聚楽第も、秀次のものになった。関白の政庁なのだから、当然の引き継ぎである。秀吉自身は伏見に移り、そちらを拠点とした。ところが文禄二年(1593)、秀頼が生まれる。

ここから話が急転する。文禄四年(1595)、秀次は謀反の疑いをかけられ、高野山で切腹させられた。妻子も処刑されている。そして聚楽第は、破壊された。

なぜ、跡形もなく消したのか

ここがこの記事のいちばん重要な点である。普通、城は「壊す」より「使う」ほうが得だ。建てるのに莫大な費用がかかっているのだから、誰かに与えればいい。それなのに秀吉は、徹底的に取り壊した。建物は解体して各地へ移築し、堀は埋められた。

理由は、この建物が「関白の政庁」だったからだと思う。秀次を消した以上、秀次が関白として使った建物が残っていては困る。そこは秀次の権威が形になった場所である。建物を残すことは、記憶を残すことだ。秀吉は記憶ごと消しにいった。

北ノ庄城が落城の火で焼け、その上に別の城が建って消えたのとは違う。聚楽第は、意図的に消された。

二条城二の丸御殿

聚楽第の建物の一部は、各地へ移築されたと伝わる

大河ドラマで描かれない話

聚楽第の破壊には、意外な結果がついてくる。建物が各地へ移築されたことで、部材が生き延びた。いくつかの寺社の門や建物に、聚楽第の遺構と伝わるものが残っている。そして近年、発掘調査で堀や石垣の跡が確認されている。京都の市街地の地下に、城の輪郭が眠っていた。

完全に消したつもりでも、土の下までは消せない。もうひとつ。秀次を消したことで、豊臣家は後継者の層を失った。残ったのは幼い秀頼ひとりである。秀頼の出生に疑いをかけられたとき、それをはねのける一族が、もう豊臣家にはいなかった。聚楽第を壊した判断は、そこまで尾を引いている。

よくある質問

Q. 聚楽第はどこにあったのですか?
A. 京都の内野(現在の上京区あたり)にありました。市街地化していますが、発掘調査で遺構が確認されています。

Q. 何年くらい存在したのですか?
A. 天正十五年(1587)の完成から文禄四年(1595)の破却まで、およそ八年です。

Q. 「じゅらくだい」と「じゅらくてい」、どちらが正しいのですか?
A. どちらの読みも用いられます。史料や研究者によって表記が分かれています。

Q. 遺構は残っていますか?
A. 建物は各地へ移築されたと伝わり、聚楽第の遺構とされるものがいくつかあります。また発掘調査で堀や石垣が確認されています。

ゆかりの地をめぐる

  • 大阪城(大阪府大阪市)… 軍事の城。聚楽第と役割を分けていた
  • 二条城(京都府京都市)… のちに家康が京都に築いた城。聚楽第と同じ役割を持つ
  • 八幡山城(滋賀県近江八幡市)… 秀次の居城
  • 大和郡山城(奈良県大和郡山市)… 秀長の居城

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まとめ

聚楽第は、豊臣政権のいちばん華やかな瞬間を象徴する建物だった。天皇を迎え、大名に誓紙を出させ、天下が定まったことを目に見える形にした。その建物を、秀吉は自分で壊した。甥を消すために、甥の権威が形になった場所ごと消した。

大坂城は残り、伏見城も残った。いちばん誇らしかったはずの建物だけが、跡形もない。豊臣家の壊れ方が、そのまま建物の運命に出ている。

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