- 宣教師ルイス・フロイスは、北ノ庄城の天守を「安土城より大きい、九層」と記録した
- ところが天守の礎石は、いまだに見つかっていない
- 一方でフロイスが書いた「石の屋根」は、物証がある。笏谷石の石瓦である
- この城が消えたのは、三度上書きされたからだった
柴田勝家の北ノ庄城には、有名な数字がひとつある。
九層。
宣教師ルイス・フロイスが、この城の天守を「安土城のものより大きく、九層あった」という趣旨で書き残した。安土城といえば信長の城である。その上を行く天守が、越前にあったことになる。
本当だろうか。

北ノ庄城址に立つ石垣の案内板。城の実像は、いまも発掘の途中にある
まず、証拠がない側から
結論から言うと、九層を裏づける物証は、いまのところ存在しない。
北ノ庄城址では発掘調査が行われ、石垣や堀の遺構は確認されている。柴田神社の境内では、石垣の根石が地表に姿を見せている。
しかし天守の礎石は出ていない。どこにどれだけの規模で建っていたのか、確定していないのである。
つまり九層という数字は、フロイスの記述だけに支えられている。
「石の屋根」という記述には、物証がある
フロイスは天守の大きさだけを書いたのではない。この城は屋根まで石で葺かれているという趣旨のことも書いている。
ヨーロッパ人の目には、それがよほど奇異に映ったのだろう。
そしてこれは、事実である。
越前には笏谷石(しゃくだにいし)という石がある。福井の足羽山で採れる、青みがかった凝灰岩である。軟らかく加工しやすいうえ、水に強い。
この石は、屋根瓦として使われた。石を薄く加工した石瓦である。福井では実際に用いられており、遺物も出ている。
つまりフロイスの「石の屋根」は、見たままの記録だった。ここが重要で、この人の記述には、実地の裏づけを持つ部分が確実にあるということになる。
勝家が石にこだわった証拠が、もうひとつある
もうひとつ、勝家と石の話がある。
九十九橋(つくもばし)である。
勝家が足羽川に架けたと伝わるこの橋は、南半分が石、北半分が木という、きわめて珍しい造りをしていた。半石半木の橋と呼ばれる。
石の部分に使われたのは、やはり笏谷石だった。この橋は明治期まで実在し、記録も絵も残っている。
石を大量に切り出し、橋にまで使う。勝家がそういう普請をした人物であることは、はっきりしている。
だとすれば、城についても相当な規模の石を使ったと考えるのは、むしろ自然である。
伊達政宗はなぜ仙台城に天守を建てなかったのか:六十二万石が選んだ「見せない権威」
勝家は見せることを選び、政宗は見せないことを選びました。天守は「建てる/建てない」の両方が意思表示になります。
では「九層」は誤りなのか
ここで、数え方の話をしておきたい。
当時、天守の規模は「重」と「階」で数えられた。屋根がいくつ重なって見えるかが「重」、内部に床がいくつあるかが「階」である。この二つは一致しない。
安土城の天主は、外から見れば五重、中に入れば地上六階に地下一階だったとされる。同じ建物なのに、数え方で五にも七にもなる。
フロイスは日本語で聞いた話を、ヨーロッパの言葉に置き換えて書いている。「層」が何を指していたのかは、そこですでに一段ぼやける。
さらに、附属する小天守や櫓を含めて数えた可能性もある。
九層という数字は、そのまま九階建てを意味しない。ただし、どう解釈しても「安土より大きい」と言わせるだけの何かがあったことは残る。
なぜ勝家は、安土を超える城を必要としたのか
ここからが、この城のいちばん面白いところだと思う。
北ノ庄城が築かれたのは天正三年(1575)以降。信長から越前を与えられた勝家が、その本拠として築いた城である。
そして安土城の築城が始まるのは、その翌年にあたる。
つまり北ノ庄城は、安土城と同時代の、最新の城だった。勝家は織田家の筆頭家老であり、北陸方面軍の司令官である。その立場にふさわしい城を、越前に建てる必要があった。
城は、住むためだけのものではない。誰がここを治めているかを、遠くから見せるための装置でもある。
北陸の大名たちに、上杉に、一向一揆の残党に、織田家の力を目に見える形で示す。それがこの天守の役目だった。
そして、示した権威は届かなかった
皮肉なのはここからだ。
本能寺で信長が死んだあと、勝家は清須会議で秀吉に主導権を奪われる。
筆頭家老であり、越前に巨大な城を持ち、北陸方面軍を率いていた男が、である。
城の大きさと、政治の力は、釣り合わなかった。
そして翌年の賤ヶ岳で敗れ、勝家はこの城に火を放って果てた。天正十一年四月二十四日のことである。
城が完成してから、わずか八年ほどだった。

城址に残る遺構。九層の天守を支えたかもしれない石が、いまも地表にある
三度、上書きされた城
北ノ庄城の遺構がこれほど乏しいのには、理由がある。
この城は三度、消されている。
- 落城で焼けた。勝家自身が火を放った
- 勝った側が処理した。敵の本拠を残す理由はない
- 上に別の城が建った。のちに結城秀康が福井城を築き、城下町が整備された
とくに三番目が大きい。近世の城と城下町が、そのまま戦国の城の上に載った。そして近代以降は市街地になり、いまは福井県庁が建っている。
玄蕃尾城が「誰も使わなかったから当時の姿で残った」のとは、ちょうど正反対である。使われ続けた土地は、記憶を上書きされていく。
よくある質問
Q. 北ノ庄城の天守は復元されていますか?
A. されていません。天守の位置も規模も確定していないため、復元の根拠がないのが現状です。柴田神社の境内で石垣や堀の遺構を見ることができます。
Q. 笏谷石はいま見られますか?
A. 福井市内の石造物や、北ノ庄城址の出土遺物などで見ることができます。青みを帯びた独特の色をしています。
Q. 九十九橋は残っていますか?
A. 半石半木の姿では残っていません。現在の九十九橋は近代以降に架け替えられたものです。
Q. 安土城と北ノ庄城、どちらが先ですか?
A. 北ノ庄城の築城が先で、その翌年に安土城の築城が始まっています。同時代の最新の城でした。
ゆかりの地をめぐる
- 北ノ庄城(福井県福井市)… 石垣の根石が地表に出ています
- 柴田神社(福井県福井市)… 城址に建つ社。御朱印・御城印があります
- 福井城址(福井県福井市)… 北ノ庄城の上に築かれた結城秀康の城
- 玄蕃尾城(福井県敦賀市)… 逆に、使われなかったから残った城
- 一乗谷城(福井県福井市)… 焼かれ、埋もれ、そのまま残った越前の遺跡
イラストで見る武将や姫たち
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まとめ
九層だったかどうかは、たぶんこれからも確定しない。
だがフロイスが「安土より大きい」と書いたという事実は動かない。それだけの印象を与える城が、越前にあったということである。
勝家は、見せる権威を選んだ。そして見せた権威は、清須の会議室では一票にもならなかった。
城址にいま残っているのは、地表にわずかに顔を出す石垣の根石だけである。九層の天守を支えていたかもしれない石が、県庁前の一角で、静かに置かれている。

