- 慶長五年(1600)、前田家は徳川家康から謀反の嫌疑をかけられた。当主の利長は交戦する構えだった
- それを止めたのが利家の妻・まつ(芳春院)。自分が人質になると申し出て、江戸へ下った
- 滞在は十四年。この間に前田家は関ヶ原で東軍につき、加賀百万石が確定する
- そしてこの一件が、大名の妻子を江戸に置く制度の第一号になった。一人の判断が、二百六十年の仕組みの出発点になっている
加賀百万石は、戦で勝ち取られたものだと思われがちである。
だが前田家がいちばん危なかったのは、戦場ではなかった。利家が死んだ翌年、この家は戦わずに消える寸前まで行っている。
それを救ったのは武将ではなく、五十四歳の未亡人だった。

金沢城の菱櫓と橋爪門続櫓。まつが江戸で十四年を過ごすあいだ、この城は前田家のものであり続けた
利家の死と、その翌年
慶長四年(1599)閏三月、前田利家が死んだ。豊臣政権の五大老の一人であり、秀吉の死後に大坂で家康を抑えられる唯一の存在だった人物である。
その重しが取れた途端、状況が動いた。翌慶長五年、家督を継いだ前田利長に、家康暗殺の企てありという嫌疑がかけられる。
証拠があったわけではない。だが当時の家康にとって、前田家は最大の対抗勢力である。疑いをかけること自体が政治的な手段だった。
なぜ前田家だけが狙われたのか
そもそも、なぜ数ある大名のなかで前田家に嫌疑がかかったのか。
秀吉の死後、豊臣政権を支える五大老のうち、家康に正面から物を言えるのは利家だけだった。石高でも、秀吉との近さでも、諸大名からの信望でも、利家は家康に次ぐ位置にいた。その利家が慶長四年に死ぬ。
つまり前田家は、「最大の対抗馬でありながら、当主が代替わりしたばかり」という、いちばん揺さぶりやすい状態にあった。利長は当時三十八歳、家督を継いで一年である。
家康が最初に手をつけたのがここだったのは、偶然ではない。そしてこの揺さぶりに前田家が耐えたかどうかが、翌年の関ヶ原で誰がどちらにつくかを大きく左右した。まつの十四年は、前田家一家の話にとどまらない。
利長は、戦うつもりだった
嫌疑を受けた利長の最初の反応は、戦うことだった。
気持ちはわかる。身に覚えのない罪で家を潰されるくらいなら、と考えるのは武士として自然である。父の利家は末森城の戦いで六倍の敵に突っ込んだ人だ。その息子が同じ判断をしても、おかしくはない。
だが、状況が違った。豊臣の重しはもうない。ここで戦えば、前田家は佐々成政と同じ道をたどる。
「私が行く」
まつは、交戦を主張する利長を説得した。そして自らが人質となって江戸へ下ると申し出た。
慶長五年、まつは金沢を発つ。五十四歳である。
この一手には二重の意味があった。ひとつは恭順の意思をこれ以上ないほど明確に示すこと。当主の母が自ら江戸に住むというのは、口先の弁明とは重みが違う。
もうひとつは、前田家に「戦わない」という選択肢を作ったことである。母が江戸にいれば、利長はもう軽々に兵を挙げられない。彼女は敵にではなく、自分の息子に対して縛りをかけた。
結果、前田家は嫌疑を解かれ、関ヶ原では東軍についた。加賀百万石は、この決断の上に成立している。
江戸での十四年
まつの江戸滞在は、一年や二年では終わらなかった。
十四年である。慶長十九年(1614)に長男の利長が死去して、ようやく金沢への帰国が許された。
その間、彼女はただ人質として座っていたわけではない。次男・利政の赦免や、娘婿の助命を幕府に直訴している。江戸にいるという立場を、家のために使えるものとして使った。
人質でありながら、交渉役でもあったということだ。

金沢城の五十間長屋。まつが金沢に戻れたのは、江戸へ発ってから十四年後だった
一人の判断が、制度になった
ここが、この話でいちばん大きいところだと思う。
まつの江戸下向は、大名の妻子を江戸に置く制度の第一号とされる。
のちに幕藩体制が固まると、大名の妻子は江戸屋敷に住むことが義務づけられ、参勤交代とセットで大名を縛る仕組みになった。二百六十年続くこの制度の出発点に、誰にも命じられずに自分から江戸へ行った一人の女性がいる。
制度というものは、たいてい前例から始まる。まつがやったのは家を救うための一手だったが、幕府はそれを見て「これは使える」と考えたのだろう。善意の選択が、後世の全大名を縛る枠組みになった——歴史にはこういう皮肉がある。
大河ドラマで描かれない話
まつは利家の従妹にあたり、永禄元年(1558)、十二歳で嫁いだ。
そして十一歳から三十二歳までの約二十一年間に、二男九女——十一人を産んでいる。戦国の女性の生涯として、これは驚くべき数字である。
その子たちが各地の大名家へ嫁ぎ、あるいは家を継いだ。前田家が徳川政権下で生き延びた背景には、この縁組の網も効いている。江戸で娘婿の助命を直訴できたのも、そもそも婿がいたからだ。
戦国の家にとって、子を産み育てて縁を結ぶことは、外交そのものだった。まつの十四年は、突然の決断ではなく、その延長線上にある。
よくある質問
Q. まつと芳春院は同じ人ですか?
A. 同じ人です。慶長四年(1599)に利家が死去したあと出家し、芳春院と号しました。
Q. 人質として、ひどい扱いを受けたのですか?
A. 幽閉されたわけではなく、江戸に居住しながら幕府へ直訴もしています。ただし十四年間、故郷へ帰れなかったこと自体は動かしがたい事実です。
Q. なぜ利長本人ではなく、母が行ったのですか?
A. 当主が国を離れれば領国の統治が成り立ちません。当主の母という立場は、恭順を示す重みがありながら、家の運営を止めずに済む選択でした。
ゆかりの地をめぐる
- 金沢城(石川県金沢市)… まつが十四年ぶりに帰った前田家の本拠
- 高岡城(富山県高岡市)… 息子・前田利長が晩年を過ごした城
- 荒子城(愛知県名古屋市)… 利家が育った尾張の城。まつも尾張の出身である
- 江戸城(東京都千代田区)… まつが十四年を過ごした徳川の城下
- 富山城(富山県富山市)… 筋を通して滅びた佐々成政の城
まとめ
前田家の三つの危機を並べてみると、対処の仕方が驚くほど似ている。
賤ヶ岳では、勝ち目のない戦から退いた。末森では、守るべき領国のために突っ込んだ。そして関ヶ原の前には、母が自ら人質になった。
共通しているのは、面子より家を優先していることである。同じ時期に、同じ尾張から出て北陸に領地を得た佐々成政は、筋を通して滅びた。前田家は筋よりも存続を選び、百万石を二百六十年保った。
どちらが立派かという話ではない。ただ、生き残ったほうの家には、必ずこういう判断をした人がいる。

