小泉城(大和郡山市):平埜生成が演じる羽田正親が守った郡山の西の城と、片桐石州の小泉藩陣屋

慈光院の木立のなかを通る石畳の参道
この記事のポイント
  • 小泉城(奈良県大和郡山市小泉町)は、室町時代に興福寺の衆徒・小泉氏が築いた平城です
  • 秀長が大和に入った天正13年(1585)、三家老のひとり羽田正親が四万八千石で城主となり、本城・郡山城を西から守る城として改修しました
  • 江戸時代には片桐且元の弟・片桐貞隆が小泉藩を開き、陣屋を構えました。二代藩主の片桐石州(貞昌)は茶道石州流の祖です
  • いまも水をたたえた堀と、復元された二層の櫓が残り、移された城門が近くの神社に伝わります。JR大和小泉駅から歩いて10分ほどです

小泉城は、大和郡山の城下から西へ数キロ、富雄川のほとりにあった平城です。大河ドラマ『豊臣兄弟!』で平埜生成さんが演じる羽田正親が、秀長の家臣として最初に預かった城で、秀長の本城・大和郡山城を西から守る役目を担いました。戦国時代には興福寺の衆徒の城、豊臣の時代には秀長の重臣の城、江戸時代には茶人大名の陣屋と、三つの時代で主を替えながら、堀と櫓に面影を残しています。羽田正親の歩みとあわせて、この城の歴史と訪ね方を紹介します。

目次

小泉氏の城 ─ 興福寺の衆徒が築いた平城

小泉城を築いたのは、この地の武士・小泉氏です。小泉氏は興福寺の大乗院に属する「衆徒」で、寺の荘園を預かりながら武力をもつ、大和らしい武士でした。大和には武家の守護がおらず、衆徒や国民と呼ばれる寺社に属した武士たちが、一乗院方と大乗院方に分かれて争っていました。小泉氏も、大和の衆徒の筆頭格だった筒井氏と争い、長禄3年(1459)には筒井順永に攻められて城を落とされたと伝わります。のちには筒井氏の配下に入り、戦国の大和を生き抜きました。衆徒という武士のあり方は衆徒とは何者かで、大和の戦国の流れは大和の戦国時代とはで紹介しています。

▽ よく語られる話
小泉城は江戸時代の片桐家が築いた陣屋で、戦国時代とは関係がない。
▼ 史実ではこうです
城のはじまりは室町時代の小泉氏の城で、秀長の時代には羽田正親が城主として改修しています。片桐家の陣屋は、その城跡の上に置かれたものです。

羽田正親の城 ─ 郡山城を西から守る

天正13年(1585)、秀長が大和・紀伊・和泉の国主となって郡山城に入ると、筒井家は伊賀へ移され、大和の城は秀長の家臣たちに配り直されました。添下郡で四万八千石を与えられ、小泉城の城主となったのが羽田正親です。正親は近江の出身で、横浜一庵・小川下野守とともに秀長の「三家老」に数えられた重臣でした。小泉は郡山城から目の届く距離にあり、西の河内・大坂方面から郡山へ向かう道を押さえる位置です。正親はこの城を改修し、本城を守る支城としました。

天正16年(1588)ごろ、正親は大和の東の守り、宇陀の松山城(秋山城)へ移ります。西の小泉から東の宇陀へ、守る方角が入れ替わったことになります。その後、正親は秀長・秀保と続いた主家が絶えたのち、文禄4年(1595)の秀次事件に連座して命を絶ちました。正親の生涯は羽田正親とはと羽田正親のその後で、三家老の行く末は秀長の三家老とはで比べています。正親が移った先の城は宇陀松山城で紹介しています。

片桐家の小泉藩 ─ 茶人大名・片桐石州

関ヶ原の戦いのあと、小泉を与えられたのが片桐貞隆です。賤ヶ岳の七本槍のひとりで、豊臣家の家老として大坂城の秀頼を支えた片桐且元の弟にあたります。小泉藩ははじめ一万石ほどで、大坂の陣のあと加増され、元和9年(1623)には小泉に陣屋が構えられました。片桐家はこの地で十一代にわたって続き、明治4年(1871)の廃藩まで小泉を治めました。兄の且元が豊臣と徳川のあいだで苦しんだのに対し、弟の家は小さな藩として幕末まで生き残ったことになります。

二代藩主の片桐貞昌は、号を石州といい、茶人として名を残しました。千利休の流れをくむ茶を学び、四代将軍・徳川家綱に茶の湯を指南して、武家の茶道「石州流」の祖となります。寛文3年(1663)には、亡き父・貞隆の菩提を弔うため、小泉に慈光院を建てました。書院と茶室は国の重要文化財で、大和の山々を借景にした庭は国の名勝・史跡に指定されています。秀吉の茶頭だった利休が切腹した天正19年から七十年あまり、その茶の流れが、秀長の家臣の城だった小泉で武家の茶として花開いたのです。利休については豊臣秀吉はなぜ千利休を切腹させたのかで書いています。

慈光院の手水鉢と小さな庭
慈光院の手水鉢。茶人大名が建てた寺らしい、簡素な設えです
慈光院の木立のなかを通る石畳の参道
慈光院の参道。木立の切り通しを石畳の道が抜けていきます

いまの小泉城跡 ─ 堀と櫓、移された城門

城跡はいま、片桐家ゆかりの地として受け継がれ、陣屋の南側には池のように水をたたえた堀が残っています。堀の向こうには二層の櫓が復元され、水面ごしに城らしい姿を眺めることができます。陣屋の石碑と案内板は東側の小さな公園にあります。城の門は近くの小泉神社などに移されて伝わり、神社の門として今も使われています。城跡の一部は片桐家の住まいとして使われているため、見学は外からが基本です。

駐車場と所要時間

JR大和路線の大和小泉駅から西へ約900メートル、歩いて10分ほどです。専用の駐車場はなく、車の場合は近くの小泉神社に参拝してから止めさせてもらう人が多いようです。堀と櫓、石碑、小泉神社の移築門をひと回りして、30分ほどが目安です。北の丘にある慈光院まではさらに歩いて15〜20分ほどで、あわせて回ると半日の行程になります。

見学順 ─ 大和小泉駅から堀、小泉神社、慈光院へ

大和小泉駅の西口から住宅地を西へ進むと、陣屋跡の東側の公園に石碑と案内板があります。そこから南へ回ると、堀ごしに復元の櫓が見える場所に出ます。続いて小泉神社に寄り、移された城門を見てから、北の丘にある慈光院へ向かう順が回りやすいでしょう。郡山城まで足を延ばすなら、大和小泉駅から郡山駅までJRでひと駅です。秀長の本城は大和郡山城で紹介しています。

▶ あわせて読みたい(大河『豊臣兄弟!』の最新回と史実)

よくある疑問

Q. 小泉城は誰が築いたのですか?
A. 室町時代に、興福寺大乗院方の衆徒だった小泉氏が築いたとされます。

Q. 羽田正親はいつ小泉城主になったのですか?
A. 秀長が大和に入った天正13年(1585)とされます。天正16年ごろには宇陀の松山城へ移りました。

Q. 片桐石州とはどんな人ですか?
A. 小泉藩の二代藩主・片桐貞昌のことで、四代将軍家綱に茶の湯を指南し、石州流茶道の祖となりました。慈光院を建てた人物です。

Q. 城跡に入って見学できますか?
A. 城跡の一部は片桐家の住まいとして使われているため、堀や櫓は外から眺める形になります。

まとめ

小泉城は、興福寺の衆徒・小泉氏の城として始まり、秀長の大和入りで羽田正親が守る郡山の西の支城となり、江戸時代には茶人大名・片桐石州の小泉藩の陣屋となりました。寺の国だった大和が、秀長によって武家の国に組み替えられ、やがて江戸の小藩として落ち着いていく流れが、この小さな城跡ひとつにたどれます。『豊臣兄弟!』で羽田正親が登場したら、郡山城とあわせて、正親が最初に預かったこの城にも足を運んでみてください。

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