- わび茶の原点は、奈良の一僧侶・村田珠光が説いた「不足の美」にあるとされる
- 千利休は長次郎に命じて黒楽茶碗を作らせ、唐物中心だった茶の湯道具を刷新した
- 利休の弟子・古田織部は、あえて歪め、時には割って継ぐという「破調の美」を追求した
- 刀剣目利きの家に生まれた本阿弥光悦は、家業を離れて楽茶碗などに独自の才能を発揮した
- 信長の弟・織田有楽斎が遺した国宝茶室「如庵」や、名物茶碗の数々は、後年、豪商・三井家に受け継がれていった
千利休の黒楽茶碗、織部の歪んだ茶碗、光悦の楽茶碗――わび茶を彩る名品の数々は、一人の天才が一代で作り上げたものではない。奈良の一僧侶が説いた「不足の美」から出発し、利休、織部、光悦、有楽斎、遠州と、幾人もの茶人・数寄者の手を経て、その美意識は少しずつ姿を変えてきた。そしてその名品の多くは、時代が下ってからは豪商・三井家のような蒐集家の手に渡り、今日まで伝えられている。わび茶の系譜を、史実と伝承を分けながら辿ってみたい。
わび茶の原点 ― 村田珠光と「不足の美」
わび茶の祖とされるのは、村田珠光(むらた じゅこう、1422年または23年~1502年)である。奈良の生まれで、11歳で浄土宗の寺に入り、応仁の乱の頃に奈良へ戻って東大寺近くに庵を結んだと伝わる。かつては還俗して商人になった、将軍・足利義政に茶の湯を指南したなどとも語られてきたが、これらは近年の茶道史研究では否定的に見られている。珠光が残したとされる文書には「和漢のさかいをまぎらかす」という言葉があり、中国渡来の唐物と日本の和物とを調和させることに関心があったことがうかがえる。また「月も雲間のなきは嫌にて候」――満月そのものより、雲間に見え隠れする月にこそ趣がある――という言葉も伝わり、完璧さよりも不足の中に美を見出す姿勢が、のちのわび茶の美意識の出発点になったとされる。珠光が愛用したという「珠光青磁」は、本来は青磁として焼かれるはずが、技術的な失敗で酸化焼成となり赤褐色に変じた中国の雑器だったと伝わり、この「本来の完成形からの外れ」を面白がる感性もまた、わび茶に通じるものがある。
千利休と長次郎 ― 黒楽茶碗という発明
珠光の死からおよそ半世紀を経て、堺の商人・千利休(宗易、1522~1591年)が茶の湯を大成する。それまでの茶の湯では、中国渡来の天目や青磁といった唐物茶碗が主に用いられていた。利休はこれに対し、瓦職人だった長次郎に命じて、抹茶を点てるための専用の茶碗を作らせた。これがのちに「楽茶碗」と呼ばれる茶碗の始まりである。長次郎の黒楽茶碗は、外側は艶のある黒に赤や黄がわずかに見え隠れする複雑な色合いを持ち、内側は艶のない褐色で、緑の抹茶が映えるよう工夫されていたと言われる。唐物の華やかさに対し、簡素で不完全さすら感じさせるこの茶碗は、わび茶の美意識をかたちにしたものだった。なお当時珍重された茶碗は唐物や楽茶碗だけではなく、朝鮮半島から渡った高麗茶碗も広く好まれており、三好長慶が所持していたと伝わる高麗茶碗を、のちに秀吉が愛用したとも語られている。天正14年(1586年)頃、秀吉は組み立て式の「黄金の茶室」を造らせ、金箔で覆った茶室で茶会を催した。利休がこの茶室にどこまで関与したかは一次史料でも明確でなく、「秀吉の悪趣味」として利休のわびとは相容れないとする見方がある一方、建築史家の堀口捨己のように「豪奢さも利休の茶の一面」と見る研究者もおり、評価は割れている。
古田織部 ― わざと壊し、歪める「破調の美」
利休の弟子の一人、古田織部(重然、1544~1615年)は、師の茶の湯をさらに独自の方向へ推し進めた人物である。整った端正な姿を尊んだ利休に対し、織部はあえて歪んだ形や大胆な文様を好み、「織部焼」と呼ばれる意匠を生み出した。伝わるところでは、大井戸茶碗の名品「須弥」(別銘「十文字」)を、織部が自らの手で割って十文字に接ぎ、小さく仕立て直したとも語られる。既存の完成品をあえて壊し、継ぎ合わせることに自分なりの美を見出したという逸話で、司馬遼太郎の小説にも取り上げられている。ただし、この逸話がどこまで同時代の一次史料に基づくものかは慎重に見る必要がある。なお、割れた陶磁器を漆と金粉で継ぐ「金継ぎ」の技法そのものは、織部よりも前の時代――足利義政の頃に、割れて送り返された青磁茶碗「馬蝗絆」を鎹(かすがい)で留めた逸話などが伝わっており、起源を織部一人に帰すのは俗説の域を出ない。それでも、破損すら景色として愛でる感性を茶の湯の美意識として明確に打ち出した点で、織部が果たした役割は大きい。
本阿弥光悦 ― 刀剣目利きの家に生まれた「天才」の楽茶碗
本阿弥光悦(1558~1637年)は、刀剣の研磨・浄拭・鑑定(目利き)を家業とする本阿弥家に生まれた。父・光二は加賀前田家から扶持二百石を受けるほどの家柄だったが、光悦自身は刀剣の仕事にはあまり携わらず、書・陶芸・漆芸・茶の湯など多方面の芸術活動に専念したことで名を残している。書では「寛永の三筆」の一人に数えられ、漆芸では「光悦蒔絵」と呼ばれる硯箱などの装飾芸術で知られる。陶芸では自ら楽茶碗を手掛け、国宝に指定されている白楽茶碗「不二山」などの作が伝わる。長次郎が専門の陶工だったのに対し、光悦は本来は陶芸を家業としない、いわば「素人」でありながら、独自の造形感覚で名品を生み出した点が特徴とされる。茶の湯については古田織部に学んだと伝わり、後年は徳川家康から拝領した京都・鷹峯の地に一族や職人とともに移り住み、芸術村を築いた。
織田有楽斎 ― 信長の弟が遺した国宝茶室「如庵」
織田有楽斎(織田長益、1547~1622年)は、織田信秀の十一男で、信長の弟にあたる(信長とは13歳離れている)。本能寺の変では、信長の長男・信忠とともに二条新御所にいたが脱出して難を逃れ、関ヶ原の戦いでは東軍について戦功を挙げた。茶の湯は千利休に学び、「利休十哲」の一人に数えられる茶人でもあり、後年は自ら茶道有楽流を創始している。隠居後は京都・建仁寺の塔頭・正伝院に住み、その境内に茶室「如庵」を設けた。利休の簡素な草庵風とは異なり、こけら葺きの入母屋造という格調高いつくりを特徴とし、現在は国宝に指定されている。
小堀遠州 ― 武家茶道の「綺麗さび」
小堀遠州(小堀政一、1579~1647年)は、備中松山城主を経て駿府城普請奉行を務め、その功により従五位下・遠江守に叙任されたことから「遠州」の名で知られるようになった大名茶人である。文禄4年(1595年)に古田織部から茶の湯を学び、青年期には千利休とも交流があったと伝わる。桂離宮の「松琴亭」前の石橋や、十三の窓を持つ茶室「擁翠亭」など、庭園・建築の作事でも多くの仕事を残した。利休の侘び、織部の破調に対し、遠州は王朝文化の優美さを茶の湯に取り入れ、明るく洗練された美意識「綺麗さび」を確立したと評価されている。
名品のゆくえ ― 三井家という受け皿
こうして生み出された名物茶碗や茶室の多くは、時代が下ると豪商・三井家の手に渡ることになる。三井家の家業を興したのは三井高利(1622~1694年)で、江戸で呉服商「越後屋」と両替商を営み、現金掛け値なしの商法などで財を成し、のちの三井財閥の礎を築いた人物である。明治に入ると、三井北家10代当主・三井高棟は茶の湯に通じた蒐集家として知られ、明治41年(1908年)には織田有楽斎ゆかりの国宝茶室「如庵」を購入し、東京の三井本邸に移築した。昭和に入って国宝指定を受けると、高棟は如庵を神奈川・大磯の別荘へ移し、これが結果として東京大空襲による焼失を免れさせることになる。昭和45年(1970年)以降は名古屋鉄道の管理に移り、現在は愛知県犬山市の日本庭園「有楽苑」で保存・公開されている。同じく三井家に伝わった名品に、国宝・志野茶碗「卯花墻(うのはながき)」がある。美濃で16世紀末から17世紀初め頃に焼かれた志野焼で、江戸時代前期の武将茶人・片桐石州が、白い釉薬の下にうっすらと見える格子状の文様を卯の花の咲く垣根に見立てて名付けたと伝わる。現在は三井記念美術館(東京・日本橋)が所蔵し、たびたび展覧会でも公開されている。名物の茶道具や茶室を蒐集し、後世に伝える役割を担ったのは、武将や茶人だけでなく、こうした豪商たちでもあった。茶の湯が、身分を超えて人と人とを結ぶ社交の道具であり続けたことの、一つの証と言えるだろう。

