- 秀吉は関白になる前から、京都で長い下ごしらえをしています。
- 妙顕寺を移転させ、その跡地に自分の居館を築きました。
- 御所を修理し、公家に知行を与えて、朝廷の財政を立て直しています。
- 朝廷の側も、応仁の乱以来の財政難で、金を出す武家を必要としていました。
- 刀を抜かずに、五年ほどで天下人の形が整います。
秀吉が関白になったのは天正十三年ですが、そこへ至る仕込みはもっと前から始まっています。京に自分の館を築き、御所を直し、公家に知行を配り、朝廷の行事に金を出す。武力で京を押さえたのではなく、金と普請で京の内側に入り込んでいったのが秀吉のやり方でした。そしてここが肝心ですが、朝廷の側にも、それを受け入れる事情がありました。
まず、京に自分の館を建てた
天正十一年ごろ、秀吉は京都の妙顕寺を別の場所へ移させ、その跡地に自分の居館を築きました。これがいわゆる妙顕寺城です。
堀と塀を巡らせた城構えで、京都の政務を扱う役所がここに置かれました。聚楽第ができるまでの数年間、秀吉の京における拠点です。
信長は京に長く居座らず、必要なときに入って出ていきました。秀吉は違います。京に住所を持ったということが、まず大きな差でした。
御所を直し、公家に知行を与えた
秀吉は禁裏の修造を行い、公家や門跡に知行を与えています。
この効果は大きい。生活が成り立つようになった公家たちは、秀吉に反対する理由を持ちません。関白相論のような家どうしの争いに秀吉が割って入れたのも、すでに朝廷の内側に足場があったからです。
図でみる|秀吉が京都で積み上げたもの
図|京に館を建ててから聚楽第の行幸まで、刀を抜かずに天下人の形が整っていきます。
官位を、階段のように上がっていく
天正十三年三月、秀吉は正二位内大臣になります。そして七月には関白です。四か月で内大臣から関白まで上がっています。
この速さは異例ですが、いきなり跳んだわけではありません。前年までに官位を段階的に上げ、公家社会の作法に沿って進んでいます。手続きを踏んでいるから、誰も止められない。
そして関白就任には、藤原の血筋という関門がありました。これをくぐる方法が、近衛前久の猶子となることでした。
天皇の代替わりにも、金を出した
天正十四年十一月、正親町天皇が譲位し、後陽成天皇が即位します。
譲位と即位には多額の費用がかかります。秀吉はこれを引き受けました。新しい天皇の即位を支えた人物という位置に、自分を置いたことになります。
この直後、十二月に秀吉は太政大臣となり、「豊臣」の氏を賜りました。朝廷の最も大きな行事に金を出した直後に、朝廷から新しい氏をもらっている。順番を見ると、この二つは無関係ではありません。
京に大仏を建てようとした
同じ天正十四年、秀吉は京に大仏を造ることを発願します。方広寺の大仏です。
奈良の東大寺の大仏に並ぶものを、京に建てる。寺社の側からも、秀吉を認めざるを得ない形になります。
御所を直し、公家を養い、天皇の即位を支え、大仏を建てる。刀を抜かずにできることを、片っ端からやっています。
そして聚楽第へ
天正十六年四月、秀吉は聚楽第に後陽成天皇を迎えます。
この行幸の場で、諸大名に誓紙を出させました。天皇の前で誓う形にすることで、破れば朝廷への裏切りになるという縛りが生まれます。
京に館を建ててから、ここまで五年ほどです。
信長との違いは、どこにあったのか
信長も朝廷と関わりを持ち、御所の修理を行っています。ただ、信長は官位を辞退することもあり、朝廷との距離の取り方が最後まで定まりませんでした。
秀吉は逆でした。官位を取りにいき、藤原の姓を借り、新しい氏をもらい、天皇を自分の屋敷へ招いた。既存の権威を壊すのではなく、その中へ入って一番上に立つ方法です。
壁を壊せば敵ができます。くぐれば、誰も損をしません。身分の低さという弱点を、身分の仕組みそのものを使って解決したと言えます。

