なぜ長宗我部元親は海で秀吉を止められなかったのか:八百艘の船団と、瀬戸内を持たなかった男

天正十三年(一五八五)の四国攻めで、豊臣の大軍は海を渡って四国へ入りました。ここで当然の疑問が出ます。海の上で迎え撃てばよかったのではないか。渡らせなければ戦にならないのだから、と。ところが記録を追うと、この戦役にまとまった海戦がありません。長宗我部元親は海岸線での迎撃を選ばず、内陸に本陣を置いて受けています。手を抜いたのではありません。海で止めるという選択肢が、最初から存在しなかったのです。

この記事のポイント
図|三方向から、同時に渡られた

安芸から毛利輝元・小早川隆景三万〜四万伊予へ備前から宇喜多勢讃岐へ淡路から秀長・秀次 六万大小八百余艘の船団阿波へ土佐 ― 長宗我部元親 二万〜四万海岸で迎え撃たず、阿波西端の白地城に本陣を置いて内陸で受けた三方向から同時に渡られると、水軍を一か所に集めても二方向が通る。しかも瀬戸内は毛利の海。今回その毛利が、攻める側にいた。

記録に残るかぎり、この戦役にまとまった海戦はない。
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三方向から、同時に渡られた

まず数と向きを押さえます。秀吉が命じたのは淡路から阿波、備前から讃岐、安芸から伊予という三方向同時の進軍でした。

阿波方面は総大将の羽柴秀長が大和・和泉・紀伊の軍三万、副将の羽柴秀次が摂津・近江・丹波の軍三万。伊予方面は毛利輝元の中国軍が三万から四万。これに讃岐方面の宇喜多勢が加わります。

対する長宗我部元親の動員は二万から四万でした。仮に長宗我部が強力な水軍を持っていたとしても、一か所に集めれば残る二方向は素通りになります。三方向同時という組み立ては、海上迎撃という発想そのものを無効にするためのものでした。

淡路が踏み台になっていた

阿波方面の渡り方が、この作戦の巧みさをよく示しています。

秀長軍は堺から船出して淡路の洲本へ。秀次軍は明石から淡路へ。両軍は淡路南端の福良で合流し、そこから大小八百余艘の船団で阿波の土佐泊へ上陸しました。

つまり大坂湾を一気に横断したのではありません。すでに味方の島である淡路を経由して、最後に海峡だけを渡ったのです。福良から阿波までは目と鼻の先です。

この短い区間を八百艘が渡るのを、洋上で捕捉して押しとどめる。そのためには、相手と同等以上の船数と、瀬戸内で戦える水軍が要ります。長宗我部にはどちらもありませんでした。

瀬戸内は、もともと毛利の海だった

ここが最も重い事情です。

瀬戸内海の制海権は、長く毛利が握っていました。村上水軍と呼ばれる海の勢力も、その多くが毛利の傘下にあります。信長との戦いで毛利水軍が本願寺へ兵糧を運び込んだのは、この力があったからです。

そして四国攻めにおいて、その毛利が攻める側に立っていました。小早川隆景の第一軍が今治浦に上陸し、続く第二軍も渡っています。

長宗我部から見れば、瀬戸内で海戦を挑むということは、その海をいちばんよく知っている勢力に、その海で挑むということでした。勝ち目のある賭けではありません。

河野氏は、長宗我部の味方ではなかった

伊予には河野氏がいました。長宗我部が伊予へ攻め込んで圧迫していた相手です。ここを押さえていれば、伊予の水軍を使えたのではないか。そう考えたくなりますが、実態は違いました。

▽ 思いがちなこと
元親は伊予まで勢力を伸ばしていたのだから、伊予の水軍も長宗我部についていたはずだ。
▼ 史実ではこうです
河野通直は毛利氏と婚姻・友好関係にありました。四国攻めでは居城の湯築城を攻囲されますが、小早川隆景の薦めによって開城しています。つまり伊予の側は、長宗我部の味方どころか毛利軍の上陸を受け入れる立場でした。通直は開城後、道後の町に蟄居させられています。

押さえていたつもりの伊予が、実際には攻め手の足場になっていた。これは元親にとって痛い誤算だったはずです。

長宗我部は、太平洋側の国だった

もう一つ、地理の問題があります。

長宗我部の本拠は土佐、岡豊城です。土佐は四国の南側、太平洋に面した国で、瀬戸内には接していません。阿波や讃岐を手に入れたのはようやく天正十年前後のことで、瀬戸内型の水軍を自前で育てる時間がありませんでした。

兵の性格も関わります。長宗我部の主力は一領具足、すなわち田を持つ半農半兵でした。呼べばすぐ集まり、近くで短く戦うかぎり強い。しかし船に乗せて瀬戸内で長期の海上作戦を行うような兵ではありません。陸の兵として最適化された軍だったのです。

のちに元親は海に面した浦戸城へ本拠を移しますが、それは四国攻めに敗れたあとの話です。

だから元親は、海岸を捨てた

以上を踏まえると、元親の判断は理にかなっています。

元親は海岸線での迎撃を選ばず、阿波西端の白地城に本陣を置いて全軍を督戦し、各城に重臣を配して内陸で受ける方針を取りました。弟の香宗我部親泰が固めていた阿波南部が、そのまま最前線になります。

海で止められないなら、上陸させてから城で粘るしかない。城で時間を稼ぎ、相手の兵糧と士気を削り、講和に持ち込む。長宗我部が狙えた勝ち筋はそこだけでした。

しかし一宮城で秀長は力攻めを避け、兵糧を絶ち、坑道を掘って水の手を断ちました。籠城で時間を稼ぐという唯一の筋も、そこで断たれます。七月中旬に一宮城は開城し、八月六日までに講和が成立しました。

記録に残る海戦がない

この戦役を通して、まとまった海上戦闘の記録は見当たりません。八百艘の船団が海峡を渡り、三万の中国軍が今治浦へ上がる。その間、海の上では何も起きていないのです。

戦国の合戦というと陸の戦いばかりが語られますが、四国攻めの場合は海の勝負が始まる前に決していたと言うべきでしょう。淡路を押さえ、毛利を味方につけ、三方向に分けた時点で、海はもう戦場ではなくなっていました。

まとめ

元親が海で止めなかったのは、油断でも見落としでもありません。三方向同時、短い渡海距離、毛利の制海権、伊予の離反、そして瀬戸内水軍を持たない土佐という本拠。この五つが重なった時点で、海上迎撃は成立しませんでした。

だから元親は内陸で受けた。そして城で粘るという最後の筋も、水の手を断つという手で崩された。豊臣兄弟と長宗我部兄弟を並べて見ると、この差は兵の強弱ではなく、どれだけ広い盤面で手を打てたかの差だったことがわかります。

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