同じ戦国の同じ時期に、兄が前に立ち弟が支えるという形の家が二つありました。豊臣の秀吉と秀長、そして長宗我部の元親と親貞・親泰です。役割の分け方は驚くほど似ています。弟が軍を率い、交渉を担い、兄の代理として決裁する。ところが決定的に違う点が一つありました。弟がどの家の名を名のったかです。そしてその違いが、二つの家の届いた場所を分けました。
- 豊臣の弟は一人、長宗我部の弟は二人
- 秀長は最後まで豊臣の一員。長宗我部の弟たちは他家の名跡を継ぎ、長宗我部を名のらなかった
- 役割はよく似ている。軍の指揮と、対外交渉
- 天正十三年の四国攻めで、この二組は正面からぶつかっている
- どちらも弟を失ったあとに傾いた
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弟の数が違う
豊臣の弟は秀長ただ一人です。対して長宗我部には吉良親貞と香宗我部親泰の二人がいました。
人数の差は、そのまま統治の形の差になっています。秀長は一人で軍事と行政と調整を引き受けました。長宗我部は西を親貞、東を親泰に分け、兄が中央から全体を見る。豊臣は一点集中、長宗我部は分業です。
分業のほうが速い。実際、長宗我部は土佐一国から二十数年で四国のほぼ全域へ手を伸ばしました。ただし分けた分だけ、欠けたときの穴も大きくなります。
弟の姓が違う
ここが最大の違いです。
秀長は最後まで豊臣の一員でした。大和・和泉・紀伊で百万石級の所領を得ても、他家に入ることはありません。豊臣という新しい家の、二番目の柱であり続けました。
一方、長宗我部の弟たちは長宗我部を名のっていません。親貞は吉良氏、親泰は香宗我部氏。どちらも長宗我部が屈服させた土佐の名族です。滅ぼさず、弟に継がせて中身を入れ替える。旧臣はそのまま家中に残り、領民から見れば主家は変わらない。
子の世代にも同じ方法が使われました。三男の親忠は津野氏へ、次男の親和は讃岐の香川氏へ。血族を名族の器に流し込んでいくやり方です。
役割は、驚くほど似ている
姓は違っても、やっていることは重なります。
秀長は四国攻めで十万余の総大将を務め、翌年の九州平定では日向方面の総大将として根白坂で島津を破りました。同時に、諸将の利害を調整し、外様を破綻なく動かす役目も担っています。
親泰は土佐東部から阿波南部までを切り取る方面軍の司令官であり、同時に織田信長・豊臣秀吉との外交の窓口でした。天正八年には安土城へ赴いています。
軍を率い、外部と折衝し、兄の代理として決裁する。この三つを兼ねられるのは弟だけだったという点で、二つの家はまったく同じ構造をしていました。
決定的な差 ― 新しい家か、古い家か
豊臣は、豊臣という家そのものを大きくしました。秀吉は関白となり豊臣姓を新たに作り出し、弟をその一門として据えた。器を新しく作って、そこへ人を入れていく方法です。
長宗我部は逆でした。古い家々の器に、自分の血を入れていった。吉良、香宗我部、津野、香川。器はそのまま、中身だけを替える。
この差は速さと強度の差になって現れます。古い器を使う方法は速い。抵抗が少なく、旧臣もそのまま使える。しかし器は他人のものなので、その家の名は長宗我部の力を増やさない。親泰がどれだけ働いても、それは香宗我部家の功績としても記録されます。
豊臣の方法は遅いが、積み上がる。秀長の百万石は豊臣の百万石でした。
秀次という接点
二つの家は無関係ではありません。意外な人物がつないでいます。
秀吉の甥・豊臣秀次は、若い頃「三好信吉」と名のっていました。清須会議のあと、織田信孝が長宗我部元親と結んで秀吉を南から包囲しようとしたため、秀吉は阿波の三好康長と誼を通じ、その証しとして甥を養子に出したのです。
つまり「三好信吉」という名前は、長宗我部元親への対抗策そのものでした。そして秀次は天正十三年三月に三好の名を捨て、その三か月後、四国攻めの副将として長宗我部と戦うことになります。
面白いことに、秀吉がここでやったのは長宗我部と同じ方法です。甥を古い名族の器に入れて、その家ごと味方にする。豊臣も、必要とあれば古い器を使いました。
天正十三年、二組は正面からぶつかった
そして両家は実際に戦っています。
天正十三年の四国攻め。総大将は秀長、副将は秀次。迎え撃ったのは元親と、阿波南部を固めていた親泰でした。豊臣兄弟と長宗我部兄弟が、四国で正面から当たったのです。
ここで見落とされやすいのが、秀長も秀次も、それぞれ一手の大将だったことです。秀長は大和・和泉・紀伊の軍三万を、秀次は摂津・近江・丹波の軍三万を、自分の手で率いています。秀長は全軍の総大将であると同時に一軍の指揮官でもあった。二人は堺と明石から別々に船出し、淡路の福良で合流して、大小八百余艘の船団で阿波の土佐泊へ上陸しました。
結果は圧倒的でした。豊臣側は三方向から十万余。長宗我部の動員は二万から四万。主戦場の一宮城は水の手を断たれて七月中旬に開城し、八月六日までに講和が成立します。一領具足という長宗我部の兵は、近くで短く戦うかぎり強かったが、包囲されて水と兵糧を絶たれる戦いには向いていませんでした。
元親は土佐一国を安堵されます。秀長は相手を滅ぼしませんでした。これも「戦わずして勝つ」という彼の流儀です。
弟を失ったあと
二つの家の結末も、よく似ています。
長宗我部は、天正四年に親貞を失い、天正十四年の戸次川で嫡男の信親を失い、文禄二年に親泰を失いました。支えを順に抜かれた元親は後継をめぐって家中を割り、慶長四年に世を去ります。
豊臣は、天正十九年に秀長を失いました。同じ年に鶴松が三歳で死に、秀吉は甥の秀次を後継に立てます。そして秀頼が生まれると秀次事件が起きた。秀長が生きていれば止められたかもしれない、とよく言われる崩れ方です。
兄弟という仕組みは、強さであると同時に弱さでした。弟にしか任せられない仕事があるということは、弟がいなくなれば誰にも任せられないということでもあります。
まとめ
豊臣兄弟と長宗我部兄弟は、役割の分け方がほとんど同じでした。弟が軍を率い、外部と交渉し、兄の代理を務める。
違ったのは器です。豊臣は新しい家を作ってそこへ人を入れ、長宗我部は古い家々に人を入れていった。前者は積み上がり、後者は速い。天下と四国という到達点の差は、この方法の差と無縁ではありません。
そして両家とも、弟を失ったところから崩れはじめました。同じ仕組みで伸び、同じ仕組みで傾いた二組の兄弟です。
