- 日本三大水攻めのうち、失敗したのは忍城だけである
- 石田堤は全長二十八キロ。ただし元荒川の自然堤防などを取り込んで築かれた
- 六月十八日、堤は切れた。豪雨に加え、城方が二か所を破壊したと伝わる。寄せ手に約二百七十人の死者が出た
- 水攻めは三成の独断ではない。秀吉が細かく指示を書き送っている
- そして忍城は、攻め落とされていない。小田原が降ったから開いた
秀吉に関わる大規模な水攻めは三つある。備中高松城、紀州の太田城、そして忍城。
前の二つは成功した。三つめだけが、落ちなかった。
ここでは、なぜ落ちなかったのかを、堤の長さと一つの夜から見ていきたい。
沼の中に浮いていた城
忍城(おしじょう、埼玉県行田市)は、利根川と荒川に挟まれた低湿地に築かれた城である。周囲は沼と深田で、古くから「浮き城」と呼ばれた。
ここに、この戦いの結論がすでに入っている。
備中高松城も太田城も、たしかに低地にあった。しかし忍城はもともと水の中に浮いている城である。城下も曲輪も、水に囲まれていることを前提に造られていた。
水に強い城に、水を当てた。それが忍城水攻めの本質だと思う。
城主は小田原にいた
天正十八年(1590)、秀吉は北条氏を攻めた。関東の支城は次々に落ちていく。
忍城の城主・成田氏長は、このとき小田原城に籠もっていた。北条方の大名として本城の守りに加わっていたからである。
城に残されたのは、留守を預かる者たちだった。当初の総大将は成田泰季だが、泰季が急死したため、その子の成田長親が総大将となる。
のちに小説と映画で「のぼう様」と呼ばれることになる人物である。
侍六十九人、足軽四百二十人
籠城側の内訳が伝わっている。
- 侍 六十九人
- 足軽 四百二十人
- その他の雑兵 二千六百二十七人
合わせて三千人あまり。しかもその大半は正規の兵ではない。近隣から入った領民が数のうえでは主力だったということになる。
寄せ手は石田三成を主将に、浅野長政、木村重茲、上杉景勝、前田利家らが加わっていた。顔ぶれだけ見れば、まったく釣り合っていない。
丸墓山に陣を置く
六月十六日、戦いが始まる。
翌六月十七日、三成は丸墓山古墳の上に陣を構えた。周囲が平坦なこの土地で、高さのある場所は限られている。古墳は数少ない高所だった。
ここから城を見下ろし、水攻めの堤を引く線が決められていく。
二十八キロを、数日で
石田堤の規模は、数字にすると驚く。
- 全長 約二十八キロ
- 築造 四〜五日(一週間とも)
- 盛土の高さ 一〜二メートル
備中高松城の堤が約三キロ、太田城が五〜六キロだった。二十八キロは、その五倍から九倍である。

忍城の水攻めのイメージ(イラスト)。記録をもとに描いた想像図で、当時の絵図ではありません。手前で兵が畚(もっこ)を担いで堤を積み、右奥の低い島が忍城です。空からは雨が降っています。この雨が、堤を切ることになります。
ただし、ゼロから積んだ二十八キロではない
ここは正確に書いておきたい。
石田堤は、元荒川の自然堤防などを取り込んで築かれている。二十八キロすべてを新たに盛り上げたわけではない。もともと土が高くなっている場所を線でつなぎ、足りないところに一〜二メートルの盛土を足した。
だから長さだけで工事量を比べることはできない。備中高松城の堤は高さ約五メートル・基底幅二十六・五メートルで、こちらは正真正銘の土木構造物である。
それでも、二十八キロの線を数日で引いたこと自体は変わらない。地形を読んで最短の手間で水を囲う、その判断は速い。
六月十八日、堤が切れた
堤ができ、水が入った。城のまわりは水に沈み、本丸まで水没しかけたという。
ところが、その日のうちに堤は切れる。
降り続いた豪雨で水位が上がりすぎたところへ、城方の本庄泰展の配下が堤防を二か所破壊したと伝わる。溜めた水は一気に外へ流れ出した。
この氾濫で、寄せ手におよそ二百七十人の死者が出た。
水攻めは、自分の兵を殺す形で失敗した。
ここに、水攻めという戦法の危うさが出ている。水は敵と味方を区別しない。堤の内側にいるのが敵だけとは限らないし、堤が切れれば水は低いほうへ走る。
誰が水攻めを決めたのか
この差は小さくない。
「三成が勝手にやった」と「秀吉が命じた」では、失敗の意味がまるで違う。前者なら個人の失策だが、後者なら方針の限界である。
そして秀吉は、備中高松城と太田城で水攻めを成功させている。成功体験がそのまま通じない地形だったというのが、いちばん素直な読み方だと思う。
落ちなかったのではなく、開いた
忍城の結末は、しばしば誤解される。
七月五日、小田原城が降伏した。
小田原に籠もっていた城主・成田氏長は、秀吉の求めに応じて忍城の兵に降伏を勧める。そして七月十六日、忍城は開城した。
つまり忍城は攻め落とされていない。主家が降ったから、城を開いた。
関東の支城が次々に落ちるなかで、最後まで落ちなかった城という評価は、この一点に立っている。
甲斐姫のこと
この籠城には、もう一人よく語られる人物がいる。成田氏長の娘・甲斐姫である。
自ら鎧を着て戦ったと伝わる。開城の後は秀吉の側室になったとされるが、秀吉の死後の動向は詳しくわかっていない。
華やかな逸話が多い人物だが、確実な史料が豊富なわけではないという点は押さえておきたい。
「石田堤」という名前が作ったもの
興味深いのは、この戦いの記憶の残り方である。
失敗した水攻めであるにもかかわらず、堤には攻めた側の名前が付いた。「石田堤」である。
研究では、軍記物のなかで三成の築堤が強調され、「石田堤」という呼称とともに攻防戦の歴史像が形づくられていったと評価されている。
負けた側の城が有名になり、勝てなかった側の堤に名が残った。この戦いの語られ方そのものが、ひとつの文化史になっている。
- なぜ秀吉は備中高松城を水攻めにしたのか:十二日で築いた堤と、発掘でわかった本当の大きさ
- なぜ秀吉は太田城を水攻めにしたのか:総延長五〜六キロの堤と、紀州征伐の一ヶ月
- 忍城:石田三成水攻め破れたり 成田氏が守る難攻不落の浮き城
石田堤はいま
二十八キロのうち、現存するのは約二百八十二メートルである。
埼玉県行田市にあり、昭和三十四年三月二十日に史跡指定を受けている。田畑のあいだに、低い土の高まりが帯のように残る。
三成が陣を置いた丸墓山古墳も、さきたま古墳群のなかに現存する。上に立つと、周囲がどれほど平坦かがよくわかる。
よくある疑問
Q. 忍城は本当に一度も落ちなかったのですか?
A. 力攻めでも水攻めでも落ちていません。開城したのは、小田原が降伏し、城主の成田氏長が城兵に降伏を勧めたためです。
Q. なぜ二十八キロも堤が必要だったのですか?
A. 周囲が平坦なため、水を溜めるには広く囲む必要がありました。ただし自然堤防を利用しているので、二十八キロすべてを新造したわけではありません。
Q. 石田三成の失敗と言われるのはなぜですか?
A. 軍記物や後世の読み物でそう語られてきたためです。実際には秀吉が水攻めを命じ、細かい指示まで書き送っていました。
Q. 「のぼうの城」はどこまで史実ですか?
A. 成田長親が総大将だったこと、水攻めが失敗したこと、城が落ちなかったことは史実です。人物像や個々の場面は創作を含みます。
まとめ
三つの水攻めを並べると、忍城だけが浮いている。
備中高松城は十二日で堤を築き、城を孤島にして落とした。太田城は一ヶ月かけて落とした。忍城は、水を溜めた当日に堤が切れた。
理由はいくつも挙げられるが、いちばん大きいのは地形だと思う。もともと沼に浮いている城に、水を当てた。水位を上げるには広く囲むしかなく、広く囲めばそれだけ切れやすい。
そして皮肉なことに、失敗した水攻めの堤にだけ、攻め手の名前が残った。落ちなかった城と、切れた堤。四百年たっても、この二つはまだ行田の田んぼのなかにある。

