- 榊原康政は、小牧・長久手の戦いで秀吉を名指しで罵る檄文を出した
- その文言は「羽柴秀吉は野人の子、もともと馬前の走卒に過ぎず」と伝わる
- 秀吉が激怒して康政の首に賞を出した、という話がある。ただし「十万石」という数字には裏づけが乏しい
- 同じ戦役で、康政は白山林の奇襲を実行した将でもある
- 旗印は「無」の一字。意味は伝わっていない
徳川四天王のひとり、榊原康政(さかきばら やすまさ)。この人がいちばん有名になったのは、槍ではなく文章によってである。
天正十二年(1584)の小牧・長久手の戦いで、康政は秀吉を名指しで罵る文書を出した。しかもかなり口が悪い。その結果、秀吉に首を狙われることになる——という話が伝わっている。
どこまでが史実で、どこからが後世の脚色なのか。順に見ていきたい。
十三歳で見出され、「康」の字をもらった
康政は天文十七年(1548)、三河の生まれ。十三歳のときに松平元康、のちの徳川家康に見出されて小姓となった。
初陣は三河一向一揆の鎮圧戦である。この戦いぶりを家康が賞し、「この手の戦い方は、この度の康政が手本なり」と言って、自分の名から「康」の一字を与えたと伝わる。
主君の名の一字をもらう。武家にとって、これ以上の栄誉はそうない。この時点で、康政は家康にとって特別な家臣になっている。
以後の戦歴も濃い。姉川では朝倉軍の側面を突き、三方ヶ原では昼のうちに兵を集めて夜に一斉に敵陣へ駆け入り、武田軍を崩した。長篠では本多忠勝とともに、突撃してくる内藤昌豊を相手に家康を守っている。
旗印は「無」の一字
康政の旗指物は、紺地に金の日輪、そして金色の「無」の一字だったと伝わる。
これが何を意味するのかは、はっきりしていない。無心か、無我か、あるいは別の何かか。本人が説明を残していないので、後世の推測しかない。
ただ、戦場でこの旗が見えたときの印象は想像がつく。文字が一つしかない旗は、遠目にもよく目立つ。
天正十二年、秀吉を名指しで罵った
小牧・長久手の戦いは、織田信雄と秀吉の争いに家康が加勢した戦役である。にらみ合いが続くなか、康政は一枚の文書を出す。
新井白石の『藩翰譜』が伝えるその文言は、こういうものだった。
それ羽柴秀吉は野人の子、もともと馬前の走卒に過ぎず。しかるに、信長公の寵遇を受けて将師にあげられると、その大恩を忘却して……
「野人の子」。「馬前の走卒」。身分の低い出であることを正面から突き、そのうえで信長の恩を忘れ、信長の子である信孝を死に追いやり、いま信雄に兵を向けていると非難する。
これは戦術としての挑発である。秀吉のいちばん触れられたくないところを、正確に狙っている。
そして狙いは、おそらく当たった。
「十万石の懸賞」はどこまで本当か
とはいえ、この逸話がこれほど語り継がれてきた理由はわかる。秀吉の出自というのは、当時の武家社会でいちばん微妙な話題だったからだ。
のちに秀吉は関白になり、豊臣という姓を創り、天皇を聚楽第に迎える。身分を「作る」ことに、あれほど執着した人はいない。その痛点を、敵将が公然と文書にした。怒らないほうが不自然である。
四月九日の朝、白山林
そして康政は、文章だけの人ではない。
天正十二年四月、秀吉方は三河の岡崎を突く別動隊およそ二万四千を送り出した。四月八日、家康はこれを察知する。丹羽氏次・榊原康政・大須賀康高らおよそ四千五百が小幡城に入り、夜のうちに追撃態勢をとった。
そして四月九日の早朝、白山林で休息していた別動隊の最後尾を、康政らが背後から急襲する。
この最後尾が、総大将の三好信吉——のちの豊臣秀次の隊だった。奇襲を受けた信吉隊は総崩れとなり、これが長久手での池田恒興・森長可の討死につながっていく。
挑発の文書を書いた男が、実際にいちばん効果的な一撃を入れている。康政という人を語るなら、この順番は落とせない。
関ヶ原に、間に合わなかった
その後、康政は徳川の関東移封にともない、上野館林で十万石を与えられる。本多忠勝と並んで家臣中第二位の禄高だった。
ところが慶長五年(1600)の関ヶ原では、康政は戦場にいない。
徳川秀忠の軍に軍監として付き、中山道を進んだ。だが上田城の真田昌幸に足を止められ、さらに荒天も重なって、本戦に間に合わなかった。
天下分け目の一日に、四天王の一人が不在だった。この遅参は、のちのちまで秀忠と康政につきまとう。

館林城跡。康政が十万石を与えられ、生涯を終えた城である
加増を断った男
康政の最後の逸話は、断り方の話である。
のちに水戸への転封を打診されたとき、康政はこれを断ったと伝わる。理由は「関ヶ原で戦功を挙げていないから」、そして「館林のほうが江戸城へ参勤しやすいから」。
加増を辞退するというのは、戦国から江戸への移行期にあってかなり珍しい態度である。家康はこの借りを神に誓う証文にして、康政に与えたという。
慶長十一年(1606)五月十四日、館林で没した。享年五十九。
よくある疑問
Q. 檄文は本当に康政が書いたのですか?
A. 『藩翰譜』という江戸中期の書物に載る話です。同時代の一次史料で裏づけられているわけではないので、「そう伝わる」という位置づけで受け取るのが妥当です。
Q. 秀吉はその後、康政を許したのですか?
A. 講和が成ったあと、秀吉は最初の使者に康政を指名し、対面してその志を賞したと伝わります。「小平太(康政の通称)と呼んでよいか」「徳川殿はよい武将を持って羨ましい」と語ったという話まで残ります。のちに康政は従五位下・式部大輔に叙されました。敵の有能な家臣を公然と褒めてみせるのは、秀吉がよく使った手でもあります。
Q. 「無」の旗印の意味は?
A. わかっていません。本人が説明を残しておらず、後世の解釈がいくつかあるだけです。
Q. 徳川四天王とは誰のことですか?
A. 酒井忠次・本多忠勝・榊原康政・井伊直政の四人を指す呼び方です。ただしこの呼称自体は後世に整えられたものです。
イラストで見る武将・姫たち
この記事に登場する人物は、姉妹サイト「日本の武将ガイド」でイラストとあわせてご覧いただけます。
- 榊原康政 … 「無」の旗を掲げた徳川四天王の一人
- 本多忠勝 … 長篠でともに家康を守った同僚
- 井伊直政 … 長久手で赤備えが働いた四天王の一人
- 酒井忠次 … 四天王の筆頭
- 徳川家康 … 十三歳の康政を見出し、自分の名の一字を与えた
- 豊臣秀吉 … 「野人の子」と書かれた側
まとめ
榊原康政という人は、言葉と槍の両方で戦った武将である。
秀吉の出自を突く文書を書き、実際に白山林で最後尾を突き崩した。挑発が挑発だけで終わらず、その直後に戦果が続いている。
そして晩年は、加増を断って館林にとどまった。「関ヶ原で働いていないから」という理由である。自分の功に見合わないものは受け取らない、という筋の通し方だ。
旗に書かれた「無」の意味は、いまもわからない。だがこの人の生涯を並べてみると、その一字がやけに似合う。

