岐阜県中津川市に馬籠宿(まごめじゅく)がある。中山道の宿場町で、いまも石畳の坂道の両側に 町並みが残る。
入口の石柱に、この宿場の位置が刻まれている。
「中山道馬籠宿 江戸に八十里半 京に五十二里半」
江戸からも京からも、ほぼ真ん中。中山道六十九次のちょうど中間地点にあたる宿場である。

「中山道馬籠宿 江戸に八十里半 京に五十二里半」の石柱
【中山道とは何だったのか】
現地の案内板「中山道」に、この道の性格が書かれている。
中山道は、はじめ「中山道」の中の「山」を意味する木曽の山岳地帯を貫いて通る道で、寛永元年(一七一六)以降「なかせんどう」と読ませるようになった、という趣旨の記述である。
そして重要なのが、この道の役割だ。
江戸と京都を結ぶ幹線道路。案内板によれば、江戸幕府によって西日本を治める大名がこの道を通っていたという。
案内板は「天下の五街道」のひとつと位置づけ、さらにこう続ける。この道路は、参勤交代や、大名行列だけでなく、姫たちが通る「姫街道」でもあった——と。
大名行列と、嫁いでいく姫の行列。この二つが同じ道を通った。

「中山道」の案内板。高札場や制札についても記されている
【なぜ東海道ではなく、山を通したのか】
ここで、地図を思い浮かべてほしい。
江戸と京都を結ぶなら、海沿いの東海道のほうが平坦で早い。それなのに、幕府はもう一本、山の中を通る道を整備した。
理由はいくつもあるが、大きいのは川である。
東海道には大井川をはじめ、橋のかかっていない大河がいくつもあった。雨が降れば川止めになり、何日も足止めされる。
対して中山道は山越えが続くが、川止めがない。日程が読める。だから姫の輿入れのような、絶対に遅れられない行列は中山道を選んだ。
木曽路は険しい。だがその険しさが、逆に確実さを生んでいた。
【戦国の木曽路 — 武田を裏切った男の道】
ここからは、この道の戦国時代の話をしたい。
木曽路は信濃と美濃を結ぶ、ほぼ唯一の通路である。だから戦国期、この道を押さえる者が誰かは、きわめて重要な問題だった。
戦国末期、木曽谷を領していたのが木曽義昌である。武田信玄の娘を妻とし、武田家の一門として遇されていた。
ところが天正十年(1582)、義昌は織田方に寝返る。
これが武田家にとって致命傷になった。木曽路が開けば、織田軍は信濃へ雪崩れ込める。
実際、そのとおりになった。高遠城の古戦場案内板は、このときの伊那谷をこう記している。
「怖れをなした伊那谷の諸将は、城を捨て逃亡、あるいは降伏して道案内をするなど、織田軍は刃に血塗らずして高遠に迫った。」
大島城が開き、飯田城が落ち、高遠城だけが戦って全滅した。そして新府城は勝頼自身の手で焼かれる。
武田家の滅亡は、木曽路が開いたところから始まっている。
【馬籠の宿場と、枡形という仕掛け】
「馬籠の宿場」の案内板に、この宿の構造が詳しく書かれている。
馬籠宿は中山道六十九次のうち、木曽谷の十一の宿場のなかで最も南に位置する。そして案内板は、宿場の中心に本陣・脇本陣・問屋が置かれ、旅人の宿である旅籠が並んでいたことを記す。
とくに面白いのが枡形(ますがた)の説明である。
案内板によれば、本来、宿場町の出入口に直角に二度折れ曲がる道を設け、これを「枡形」といった。
これは城の虎口と同じ発想である。
まっすぐ入れないようにする。折れ曲がらせて、勢いを削ぐ。岩村城や新府城の虎口と、考え方が変わらない。
宿場町は、小さな城でもあった。

「馬籠の宿場」「枡形」の案内板。枡形の図解も添えられている
【二度の大火で、江戸は焼けた】
そして案内板には、重い記述がある。
明治二十八年(一八九五)と大正四年(一九一五)の二度の大火で、江戸時代の建物はほとんど焼失したという趣旨のことが書かれている。
いま見ている町並みは、江戸のものではない。
そして案内板は明治四十二年(一九〇九)に中央線が全線開通することにより、宿場としての使命を終えたとも記す。
鉄道が通り、宿場は要らなくなった。その直後に火事で焼けた。
それでも馬籠は町並みを復元した。失ったあとに、作り直す道を選んだということである。高遠城が廃城のあと旧藩士たちの手で桜を植えられたのと、どこか似ている。

石畳の坂道。この傾斜が馬籠宿の特徴である
【島崎藤村が生まれた本陣】
馬籠を有名にしたもうひとつの理由が、島崎藤村である。
藤村は、この馬籠宿の本陣に生まれた。現地の標柱に「文豪 島崎藤村生誕の地」とある。
本陣とは、大名や公家が泊まる格式の高い宿である。その家の子が、日本近代文学の代表的な作家になった。
いま本陣跡は藤村記念館になっている。案内によれば「島崎藤村宅(馬籠宿本陣)跡」で、日本遺産構成文化財に指定されている。
藤村の代表作『夜明け前』は、この馬籠宿を舞台に、幕末から明治への転換を描いた小説である。冒頭の一行はあまりに有名だ。
「木曽路はすべて山の中である」
現地の案内板にも、この言葉が引かれている。「木曽路はすべて山の中〜山を守る〜」と。

藤村記念館。「島崎藤村宅(馬籠宿本陣)跡」の表示がある
【脇本陣と、清水屋】
本陣のほかに、脇本陣がある。本陣が満員のときや、格の下がる一行が使う予備の宿である。
現地の案内板によれば、馬籠脇本陣史料館は、最高位の者が使用した部屋を復元するとともに、使用した道具や被服類を通じて、江戸期における上流社会の文化を紹介していますとある。
そしてもうひとつ、清水屋資料館。
案内板にはこうある。「文豪藤村のゆかりの家です。清水屋には掛軸・書簡・写真などが展示してあります。」
さらに「また過ぎし日の宿場、馬籠の生活史、文化史とも云える数々の資料が往昔の姿のまま、ひっそりと、その影を残して居ます。」
案内板は最後をこう結んでいる。「馬籠を訪れた人達に流れゆく時代の心をとどめさせてくれるとおもいます。」

清水屋資料館。藤村ゆかりの家である
【馬籠城跡もある】
観光案内図を見ると、宿場の南に「馬籠城跡」の表示がある。
木曽路を押さえるための小規模な城で、戦国期にこの街道が軍事的な意味を持っていたことを示している。
宿場町として整備される前、ここは通行を監視し、遮断するための場所だった。街道と城は、もともと同じ理由でそこにある。
【馬籠宿の現地写真】

石畳の坂を見下ろす。晴れた日には遠くの山まで見える

馬籠宿の下入口。10:00〜16:00は車両通行禁止になる

宿場の水車。いまも回っている

馬籠脇本陣史料館。「山口誓子の句碑」も立つ

馬籠宿の案内図。馬籠城跡や藤村の墓の位置も示されている

宿場の周囲に広がる棚田。木曽路の暮らしがここにある
【訪ねるときに】
宿場は坂道である。下入口から上入口まで、ずっと登りが続く。石畳なので雨の日は滑りやすい。現地にも「SLIP CAUTION」の注意板が出ている。
10:00〜16:00は宿場内が車両通行禁止になる。歩いて回るのが前提の町である。
時間があれば馬籠峠を越えて妻籠宿まで歩くのがいい。案内板によれば中山道の遊歩道が整備されている。これが本来の中山道である。
宿場を歩くだけなら一時間ほど。藤村記念館や脇本陣史料館に入るなら、半日は見ておきたい。
【馬籠宿・場所・アクセス】
〒508-0502 岐阜県中津川市馬籠
JR中央本線「中津川駅」からバスで約25分/中央自動車道「中津川IC」から車で約20分。
宿場の上下に駐車場があります(一部有料)。
【馬籠宿ゆかりの地】
