- 天正十一年(1583)四月二十日、佐久間盛政は大岩山砦を急襲して中川清秀を討ち取った
- だが柴田勝家の帰陣の督促に応じず、戦場に留まりつづけた
- そこへ秀吉が美濃から引き返してくる。盛政は夜中に退却を始めるが、もう遅かった
- 盛政の母は勝家の姉。勝家にとっては、実の子に近い甥だった
賤ヶ岳の戦いには、対になる二人がいる。
一人は前田利家。戦わずに戦場を去り、のちに加賀百万石を残した。
もう一人が佐久間盛政である。退かずに戦い続け、そして斬首された。
同じ柴田陣営、同じ戦場、同じ日。それでいて選択も結末も正反対だった。この二人を並べると、賤ヶ岳という戦いの形が見えてくる。

金沢城石川門。賤ヶ岳の前年、佐久間盛政はこの城の主だった
「鬼玄蕃」と呼ばれた男
佐久間盛政は天文二十三年(1554)の生まれ。母は柴田勝家の姉である。つまり勝家は盛政の外叔父にあたり、二人は父子のような間柄だったと伝わる。
盛政は勝家の下で加賀平定に働き、金沢城主として加賀半国を任された。二十代の若さである。
官途は玄蕃允。そして戦場での猛烈さから、「鬼玄蕃」「夜叉玄蕃」と呼ばれた。
四月二十日、大岩山砦
天正十一年(1583)、柴田勝家は玄蕃尾城に本陣を置き、秀吉方と対峙していた。戦線は膠着している。
そこへ、秀吉が動いた。織田信孝が岐阜で再挙したため、秀吉自身が主力を率いて美濃へ向かったのである。
柴田方にとっては好機だった。四月二十日、盛政は手薄になった秀吉方の砦を突く。大岩山砦を守る中川清秀を、防備の薄い側から攻め登って討ち取った。
作戦としては成功である。ここまでは、誰も文句のつけようがない。
なぜ、退かなかったのか
問題はそのあとだった。
軍記物によれば、勝家は盛政に「戦いが終わったら速やかに帰陣せよ」と伝えていた。奇襲は一撃離脱であってこそ意味がある。深入りすれば、戻ってきた秀吉本隊に捕まる。
だが盛政は、戦場に留まりつづけた。
理由は史料の上でははっきりしない。ただ、考えられることはいくつかある。
ひとつは、勝ちすぎたこと。中川清秀を討った直後の戦場である。目の前には崩れかけた敵陣があり、押せばもっと取れると見えたはずだ。撤退の判断がいちばん難しいのは、負けているときではなく、勝っているときである。
もうひとつは、秀吉の帰陣速度を読み違えたこと。美濃から戦場までは五十キロ以上ある。常識的には数日かかる。その常識が、この戦いでは通用しなかった。
秀吉は、のちに「美濃大返し」と呼ばれる強行軍で引き返してきた。盛政が「まだ来ない」と思っていた時間は、実際には残っていなかった。
孤立を悟った盛政は夜中に退却を始める。だが、退き際こそがいちばん脆い。柴田軍は総崩れになった。
退いた男と、退かなかった男
ここで前田利家と並べてみたい。
利家は茂山に布陣したまま戦わず、戦場を去った。世間はそれを「裏切り」と呼んだ。だが利家は柴田勝家の家臣ではなく、信長が付けた与力にすぎない。本能寺で信長が死んだ時点で、そこに留まる根拠は失われていた。
一方の盛政は、勝家の甥である。血のつながった、父子同然の間柄。去るという選択肢が、そもそも存在しなかったのだろう。
利家は「引き受けていない戦」から降り、盛政は「降りられない戦」で前に出た。どちらも、自分の立場に忠実だったという意味では同じである。
そして結果だけが、残酷なほど分かれた。

金沢城。盛政が去ったあと、この城には前田利家が入った
秀吉の助命を、盛政は断った
敗走した盛政は、越前の山中で捕らえられた。
ここからが、この人物の芯が出る場面である。秀吉は盛政を助けようとした。降れば取り立てる、と説いたと伝わる。二十九歳、加賀半国を治めた実績のある武将である。惜しくないはずがない。
盛政は、断った。
天正十一年五月十二日、洛中を引き回されたのち、槇島で斬首。首は晒された。
助命を受け入れていれば、豊臣政権のどこかに席はあっただろう。だが受け入れれば、勝家に殉じた人々の死の意味が消える。鬼玄蕃と呼ばれた男が最後に守ったのは、戦の勝ち負けではなく、そこだったのだと思う。
大河ドラマで描かれない話
盛政が去ったあと、加賀は前田利家のものになった。金沢城の主は、盛政から利家へ移ったのである。
退かなかった男が失い、退いた男が得た。二人の選択の差が、そのまま城の主の交代になっている。
そしてこの金沢城から、加賀百万石が始まる。賤ヶ岳の一日は、北陸の地図をそのまま書き換えた。
よくある質問
Q. 佐久間盛政は佐久間信盛の一族ですか?
A. 同じ佐久間氏の一族です。ただし信長に追放された信盛とは系統が異なり、盛政は柴田勝家の甥として北陸で活躍しました。
Q. なぜ「鬼玄蕃」と呼ばれたのですか?
A. 官途の玄蕃允に、戦場での猛烈な戦いぶりが結びついた異名です。「夜叉玄蕃」とも呼ばれました。
Q. 大岩山砦の奇襲は失敗だったのですか?
A. 奇襲そのものは成功しています。中川清秀を討ち取り、砦も奪いました。問題はそのあと戦場に留まったことで、勝った直後の撤退判断が勝敗を分けました。
ゆかりの地をめぐる
- 玄蕃尾城(福井県敦賀市・滋賀県長浜市)… 柴田勝家が本陣を置いた陣城。遺構が良好に残る
- 金沢城(石川県金沢市)… 盛政が城主を務め、のちに前田家の居城となった城
- 北ノ庄城(福井県福井市)… 敗れた柴田勝家とお市が最期を迎えた城
- 小谷城(滋賀県長浜市)… お市が浅井長政と暮らした城
- 長浜城(滋賀県長浜市)… 秀吉が初めて城主となった城
- 茨木城(大阪府茨木市)… 盛政が大岩山で討ち取った中川清秀の城
この戦いに関わった武将
人物の詳細は姉妹サイト「日本の武将ガイド」でご覧いただけます。
- 佐久間盛政 … 本記事の主人公。「鬼玄蕃」と恐れられた加賀の勇将
- 柴田勝家 … 盛政の外叔父にして主君。北ノ庄城で最期を迎えた
- 中川清秀 … 大岩山砦を守り、盛政に討ち取られた武将
- 前田利家 … 同じ戦場で退くことを選んだ男
- 柴田勝豊 … 勝家の養子。賤ヶ岳の前に秀吉へ降り、敗北の一因となった
- 織田信孝 … 岐阜での再挙が、秀吉を美濃へ向かわせた
- 不破光治 … 利家とともに越前府中を分け合った府中三人衆の一人
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まとめ
佐久間盛政は、戦下手だったわけではない。大岩山砦の攻略はむしろ鮮やかだった。
彼が誤ったのは、勝ったあと、いつ引き返すかという一点である。そしてその判断を狂わせたのは、油断でも慢心でもなく、「もう少し押せる」という、勝っている側の当然の感覚だったのだと思う。
秀吉はその隙を、五十キロを駆け戻ることで突いた。賤ヶ岳の勝敗は、槍ではなく脚で決まった。
