安土山図屏風はどこへ消えたのか:信長がローマ教皇に贈った安土城の絵と、描いたのは狩野永徳か父の松栄かという問題

金地の屏風の前で筆を持つ絵師のイメージイラスト(狩野永徳)

信長は、安土城とその城下町を描かせた屏風を一つ持っていました。それを天皇に見せ、宣教師に贈り、少年たちがローマまで運んで教皇に献上しました。バチカンの回廊に飾られていたところまでは記録がありますが、そのあと行方がわからなくなります。安土城の姿を同時代に写した、おそらく唯一の絵です。いまも探されています。

▶ この記事でわかること
  • 安土山図屏風とは何で、なぜそれほど貴重なのか
  • 信長から教皇までの、屏風がたどった道のり
  • 描いたのは狩野永徳か、父の松栄かという問題
  • バチカンで実際に見た人がいるという記録
  • 見つかれば何がわかるのか
目次

安土山図屏風とは何か

安土城と、その城下の町を描いた屏風です。天正八年の夏に描かれました。安土城が建ったのが天正四年から七年にかけてですから、できあがってまもない城を、同じ時代の絵師が見て描いたことになります。

この一点が重いのは、安土城の姿を伝える同時代の絵が、ほかに知られていないからです。城は天正十年の六月、本能寺の変の十三日後に焼けました。描かれた建物は、絵ができてわずか二年で消えています。残された手がかりは、宣教師の報告と『信長公記』の文章、それに発掘で出てきた礎石だけです。天守の形をめぐって今も議論が続いているのは、見た人の絵がないからにほかなりません。北ノ庄城の天守が本当に九層だったのかという話も、結局は同じ事情から出ています。

信長はなぜ城の絵を描かせたのか

城そのものが、信長にとって見せるためのものでした。安土城には城下の人々を入れて見物させた記録があり、宣教師にも見せています。建物を見せられる相手は、その場に来られる人だけです。絵にすれば、城を動かせます。

実際、信長はこの屏風をまず御所へ持っていきました。秀吉が京都で御所の修理をしていたのと同じころ、信長は正親町天皇に自分の城の絵を見せています。天皇はこれを見て、文を書きました。城を一度も見ていない相手に、城の壮大さだけを届けたことになります。

信長は絵を贈り物に使ったのか

城の絵を宣教師に渡した信長には、もう一つ、絵を贈ったと伝えられる話があります。京の町を描いた洛中洛外図屏風を、上杉謙信に贈ったという話です。この屏風は米沢に伝わって国宝になっており、永徳の印が捺されています。

▽ よく語られる話
信長が同盟の証として、上杉謙信に洛中洛外図屏風を贈った。
▼ 史実ではこうです
屏風に永徳の印があることと、上杉家に伝わったことは確かです。ただし信長が贈ったという話の出どころは、江戸時代に上杉家がまとめた家史で、同時代の記録は見つかっていません。贈られた年とされる天正二年についても同じです。「上杉家にそう伝わっている」までが、はっきりしているところです。

この屏風がいつ、誰の注文で描かれたかにも議論があります。狩野派の仕事の受け方をふまえると、注文主と筆を入れた者が別という事態は珍しくありません。とはいえ、安土山図屏風のほうは贈った相手と年が外部の記録でも裏づけられます。信長が絵を外へ出す道具として使ったこと自体は、疑う必要がなさそうです。

天皇に見せ、宣教師に渡した

屏風が人の手を渡っていく過程は、断片的ながら記録に残っています。

▶ 安土山図屏風がたどった道
  • 天正八年八月 狩野派の絵師が描き上げる。『御湯殿上日記』の同月十三日の条に、屏風を描かせたという記事がある。正親町天皇が見て、文を記した
  • 天正九年八月十四日 信長が、巡察師ヴァリニャーノに贈る
  • 天正十年三月 天正遣欧少年使節が、屏風を携えて長崎を出発する
  • 天正十三年の春 ローマで教皇グレゴリウス十三世に献上される
  • 天正二十年七月 バチカン宮殿で、実物を見た人物が写しを取る
  • その後 所在がわからなくなる

贈られた天正九年の時点で、信長はまだ畿内を固めている最中でした。松永久秀が信長に背いて滅びたのがその数年前で、安土城はその戦いの延長線上に建った城です。信長が屏風を手放したのは、焼ける十か月前です。本人はこの絵がヨーロッパに着いたことも、城が焼けたことも知りません。

少年たちが運んだ

天正遣欧少年使節が屏風を携えて長崎を出航する場面のイメージイラスト

屏風を運んだのは、九州のキリシタン大名が送り出した四人の少年たちでした。長崎を出てから、ローマに着くまで三年かかっています。帆船の船倉に、六曲一双とみられる大きな屏風を積んで、インド洋と喜望峰を回りました。

献上の場面は、教皇庁の側にも記録が残っています。日本から来た少年たちが、見たこともない建物を描いた金地の屏風を差し出した。異国の珍しい品として、宮殿の「地図の回廊」に飾られました。なお、同じころ日本では松永久秀が大仏殿を焼いた話が語り継がれており、信長の周辺の出来事が外から見ればどう映ったかは、宣教師の報告がよく伝えています。

バチカンで見た人がいる

ここが、この話がただの伝説で終わらない理由です。

天正二十年の七月、バチカンを訪れたある人物が、回廊に飾られていた屏風を見て、自分の手控えに写しを描きました。これによって、屏風が確かにローマに届き、しばらくは飾られていたことがわかります。献上から七年後のことです。

写しを取った人物は宮殿の壁画を記録して回っていた画家で、屏風を異国の珍品として書き留めました。宣教師フロイスが見た城の記述がそうであるように、この時代の日本の建物は、外から来た人の記録のほうが具体的なことがあります。

その後の記録が途切れます。宮殿の改修で外されたのか、どこかへ移されたのか、処分されたのか、わかっていません。少なくとも焼けたという記録はありません。だから探す値打ちがある、というのが現在の見方です。

描いたのは永徳か、父の松栄か

一般には「狩野永徳が描いた」と紹介されることが多いのですが、ここには引っかかりがあります。

▽ よく語られる話
安土城を描いた屏風だから、安土城の障壁画を描いた狩野永徳の作である。
▼ 史実ではこうです
『御湯殿上日記』が記す絵師の名は「源七郎」です。源七は、永徳の父・松栄の通称で、永徳の通称は源四郎でした。名前が食い違っています。書き間違いという見方もありますが、松栄が描いたとする説のほうが有力だとする研究もあり、作者は決着していません。

ややこしいのは、狩野派が工房で描く集団だったことです。下絵を引く者、金箔を置く者、彩色する者が分かれていました。誰の名前で注文を受け、誰が実際に筆を入れたかは、必ずしも一致しません。狩野派が家として続いた仕組みを知ると、この食い違いもそれほど不自然ではないとわかります。

いずれにせよ、永徳が安土城の建物の内側を描いたことは『信長公記』の系統の史料で確かめられます。屏風の作者が父であったとしても、安土城と狩野家の結びつきが揺らぐわけではありません。

いまも探されている

この屏風は、過去の遺物として諦められているわけではありません。滋賀県が探索の取り組みを続けていて、バチカンの文書館や、ヨーロッパの美術館の収蔵品を手がかりに追っています。手控えに残された写しが、照合のよりどころです。

手がかりは意外に多く残っています。天皇が文を書いたこと、贈られた日付、運んだ船、献上された年、そして七年後にバチカンで見た人がいること。永徳が描いた安土城の中身についても『信長公記』の系統の記録があり、絵の内容を突き合わせる材料になります。

四百年以上たっていますから、楽観はできません。それでも、紙と金箔でできた屏風は、火にさえ遭わなければ残りうるものです。

見つかれば何がわかるのか

▶ 安土山図屏風が出てきた場合にわかること
  • 安土城天守の外観 階数、屋根の形、色。発掘の成果と突き合わせれば、復元案が一気に絞られる
  • 城下町の姿 町割り、家並み、人の暮らし。城下町に商人を集めるという政策が、実際にどんな町をつくったのか
  • 狩野派の画風の基準作 天正八年という年がはっきりした作品が一点増える。作者論の決め手にもなる
  • 信長が自分をどう見せたかったか 何を大きく描き、何を省いたかに、意図が出る

城の研究にとっては、これ以上ない資料です。安土城の姿が決まれば、そのあとに建った城の見方も変わります。

永徳の大きな仕事は、建物と一緒に消えた

安土山図屏風が行方不明なのは特別な不運に見えますが、永徳の仕事全体を見渡すと、そうでもありません。この人の代表作は、ほとんどが城や御殿の襖と壁と天井に描かれました。建物が失われれば、絵も一緒に失われます。

▶ 永徳が描いた建物のその後
  • 安土城 天正十年六月、本能寺の変の十三日後に焼失
  • 大坂城 大坂夏の陣で焼失
  • 聚楽第 秀次の事件のあと、秀吉自身が壊した
  • 天瑞寺 秀吉が母のために建てた寺。明治の混乱のなかで廃寺に
  • 東福寺の法堂 永徳が天井に龍を描きかけた建物。明治の火災で焼失

秀吉が母のために建てた天瑞寺の絵を永徳が引き受けている点は、覚えておいてよいところです。大河で描かれている兄弟の母のために建てられた寺を、この絵師が飾りました。

いま残っているのは、建物から外して屏風に仕立て直されたものか、はじめから屏風として描かれたものだけです。だからこそ、持ち運べる形で海を渡った安土山図屏風には、わずかとはいえ望みがあります。

よくある質問

屏風は何隻だったのですか。
六曲一双、つまり六枚折りの屏風が二つで一組だったとみられています。ただし、記録に寸法が書かれているわけではありません。

安土城の絵は本当にほかに残っていないのですか。
同時代に実物を見て描いたと確かめられる絵は、知られていません。江戸時代以降に描かれた想像図はいくつもありますが、それらは城が焼けたあとのものです。

永徳が安土城の内部に描いた絵も残っていないのですか。
残っていません。天守と本丸が焼けたとき、障壁画も一緒に失われました。永徳の生涯をたどると、この人の大きな仕事はほとんどが建物と運命をともにしています。

まとめ

安土山図屏風は、信長が自分の城を見せるために作らせ、天皇に見せ、宣教師に贈り、少年たちがローマまで運んだ絵です。バチカンで飾られていたところまでは確かで、そこから先がわかっていません。描いたのが狩野永徳か、父の松栄かも決着していません。

第三十八回「和を以て、大和をなす」で、片岡鶴太郎が狩野永徳を演じます。片岡鶴太郎がこれまで演じてきた歴史上の人物をたどると、絵師の役はこれが二作続けてになります。

放送と再放送
本放送は日曜 午後8時(NHK総合)、日曜 午後6時(NHK BS)、日曜 午後0時15分(BSプレミアム4K)。再放送は翌週土曜 午後1時05分(NHK総合)と、日曜 午後6時(BSプレミアム4K)です。
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