赤穂浪士の討ち入りをわかりやすく解説:あの段だら模様は、七十年後に生まれた

泉岳寺へ引き揚げる赤穂浪士のイメージイラスト:夜明けの雪の江戸を歩く隊列
この記事のポイント
  • 浅野内匠頭は即日切腹、吉良上野介にはお咎めなし。この一方的な裁きが事件の起点である
  • 討ち入りは元禄十五年十二月十四日の深夜。浪士は四十七人だった
  • おなじみの黒と白の段だら模様は、討ち入りの七十年以上あとに浮世絵で生まれた意匠である
  • 史料が伝える装束は黒小袖。その上から白い布で右袖だけを包んでいた
  • 切腹したのは四十六人。討ち入ったのは四十七人である

十二月になると、必ずどこかで忠臣蔵が流れる。

黒と白の段だら模様、雪の夜、山鹿流の陣太鼓。あの絵は、日本人の記憶にいちばん深く刻まれた時代劇の一場面だと思う。

ただ、そのうちのいくつかは、事件から百年近くたってから作られたものである。ここでは、何が史料にあって何が後からの意匠なのかを、順に見ていきたい。

目次

元禄十四年三月十四日、松の廊下

すべては江戸城の廊下で始まった。

元禄十四年(1701)三月十四日、赤穂藩主・浅野内匠頭長矩が、高家肝煎の吉良上野介義央に斬りつけた。

場所は江戸城本丸の「松之大廊下」。勅使を迎える儀式の当日だった。

動機については諸説あり、確かなことはわかっていない。吉良からの嫌がらせがあったという話も、浅野の側に事情があったという話も、どちらも決め手を欠く。残っているのは「斬りつけた」という事実だけである。

片方だけが死んだ

裁きは速かった。

  • 浅野内匠頭 … 即日切腹。浅野家は断絶
  • 吉良上野介 … お咎めなし

武家社会には「喧嘩両成敗」という考え方があった。それが適用されなかった。

赤穂藩は取り潰され、家臣たちは城を明け渡して浪人になる。藩士三百人あまりが、一日で職も家も失った。

この処分の不均衡が、そのあとの一年九ヶ月を生むことになる。

元禄十五年十二月十四日の夜

元禄十五年(1702)十二月十四日の深夜、日付が変わろうとする時刻。

元赤穂藩筆頭家老・大石内蔵助良雄を首領とする四十七人が、本所松坂町の吉良邸に討ち入った。

表門と裏門の二手に分かれ、梯子を掛けて塀を越え、門を破って邸内に入る。吉良方の死者は十数名、浪士側に死者はいない。

吉良上野介は炭小屋で見つかり、討たれた。

赤穂浪士の討ち入りのイメージイラスト:雪の夜、梯子を掛けて吉良邸の塀を越える一隊

討ち入りのイメージ(イラスト)。記録をもとに描いた想像図で、当時の絵図ではありません。装束に注目してください。段だら模様はありません。黒い小袖に、白い布で包んだ右袖。これが史料の伝える姿です。

あの段だら模様は、七十年後に生まれた

この記事でいちばん書きたいのがここである。

▽ よく語られる話
四十七士は黒と白の段だら模様(雁木模様)の揃いの火事装束に身を包み、雪の夜に討ち入った。
▼ 史実ではこうです
あの雁木模様は、安永・天明期(1772〜89年)の浮世絵に登場する意匠です。討ち入りは1702年ですから、七十年から九十年ものちに生まれたことになります。『仮名手本忠臣蔵』の舞台演出として定着したもので、当時の浪士が着ていたものではありません。

では、実際は何を着ていたのか。

黒小袖と、白い右袖

史料は残っている。

  • 『江赤見聞記』 … 大石内蔵助が黒小袖の着用を命じたと記す
  • 『赤城士話』 … 黒小袖の上に白布一巾をもって右の袖を包んだと記す
  • 『寺坂信行筆記』 … 全員が火事装束を着たというのは疑問だとする

つまり全身が黒で、右の袖だけが白い。それが目印だった。

理由を考えると、実用そのものである。夜の闇にまぎれるには黒がいい。だが真っ暗では味方も見分けられない。そこで右袖だけを白くした。斬り合いのなかで、腕を上げれば白が見える。

『寺坂信行筆記』は、この白布で包んだ右袖が、遠目に火事装束のように見えたのではないかと推測している。芝居の派手な衣装は、ここから育っていったのかもしれない。

地味だが、こちらのほうが強い。揃いの縞模様よりも、黒一色に白い袖のほうが、あの夜に近い。

泉岳寺への道

討ち入りが終わったのは、夜が明けるころだった。

浪士たちは吉良の首を携え、隊列を組んで江戸の町を歩く。向かったのは泉岳寺。主君・浅野内匠頭の墓がある寺である。

沿道には人が出ていたと伝わる。逃げも隠れもしなかった。これは仇討ちであって押し込み強盗ではない、という主張そのものが、この行進だった。

泉岳寺に着いた一行は、主君の墓前に吉良の首を供え、そして自ら幕府に届け出た。

泉岳寺へ引き揚げる赤穂浪士のイメージイラスト:夜明けの雪の江戸を歩く隊列

泉岳寺への引き揚げのイメージ(イラスト)。記録をもとに描いた想像図で、当時の絵図ではありません。走ってもいないし、勝ち誇ってもいない。この人たちは、このあと自分たちがどうなるかを知っていました。

四十七人が、四十六人になった

浪士たちは四家の大名家に預けられた。

そして元禄十六年(1703)二月四日、切腹を命じられる。人数は四十六人だった。

討ち入ったのは四十七人である。一人足りない。

欠けたのは寺坂吉右衛門信行で、討ち入りのあと隊列を離れている。理由には諸説あり、大石の命を受けて遺族へ報告に向かったとする説、離脱したとする説などがあって、定まっていない。

寺坂は八十三歳まで生きた。四十七士のうち、ただ一人。

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討たれた側から見た事件です。三河吉良での評価もあわせて。

吉良邸は、八十六分の一になった

討ち入りの舞台は、今どうなっているか。

吉良邸はおよそ二千五百五十坪(約八千四百平方メートル)あった。吉良上野介がここへ移ったのは元禄十四年九月三日、事件から半年後のことである。幕府の命で、松平登之助の屋敷を拝領して移り住んだ。

現在そこにあるのは本所松坂町公園で、広さは約九十八平方メートル(二十九・五坪)。

八十六分の一である。

しかも公園の位置は、元の屋敷の北辺の一部にすぎない。討ち入りが繰り広げられた庭も、吉良が隠れた炭小屋も、そこにはない。日本でいちばん有名な討ち入りの現場は、ほぼ完全に消えている。

公園には海鼠塀と黒塗りの屋敷門が復元されていて、高家の格式を伝えている。

現地はいま

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大石内蔵助:吉良邸討ち入り 赤穂藩家老

四十七人をまとめた、元赤穂藩筆頭家老です。

よくある疑問

Q. 討ち入りの日は雪が降っていたのですか?
A. 雪の夜として描かれるのが定番ですが、当夜に降っていたかについては議論があります。前日までの雪が積もっていたとする見方もあります。

Q. 吉良上野介は本当に悪人だったのですか?
A. 領地の三河吉良では、治水を行った善政の領主として今も慕われています。芝居の悪役像は、物語の構造上そうなった面が大きいといえます。

Q. なぜ四十七人だったのですか?
A. 当初はもっと多くの旧藩士が加わる意向を示していましたが、時間の経過とともに脱落していきました。最後まで残ったのが四十七人です。

Q. 「忠臣蔵」という題名はどこから来たのですか?
A. 人形浄瑠璃・歌舞伎の『仮名手本忠臣蔵』(1748年初演)からです。事件から四十六年後の作品で、舞台は室町時代に移して書かれています。

まとめ

赤穂事件が長く語られてきたのは、筋が通っているようで通っていないからだと思う。

喧嘩両成敗のはずが、片方だけが死んだ。仇討ちのはずが、幕府の法では認められない。逃げも隠れもしなかったが、それでも切腹を命じられた。どこを切っても割り切れない。

そして人々は、割り切れないものに衣装を着せた。黒と白の段だら模様、雪、陣太鼓。七十年かけて、事件は物語になった。

史料が伝えるのは、もっと地味な姿である。黒い小袖に、白い布で包んだ右の袖。闇にまぎれ、味方だけには見える。あの夜を歩いたのは、そういう装束の四十七人だった。

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